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 天平堂

Special Preview先行紹介

朝鮮唐津水指(中里無庵)

御売却済

日本陶芸界の巨匠・中里無庵氏の晩年期における格調高い朝鮮唐津水指です。冴え渡る黒飴釉と藁灰釉が見事な景色を生み出しており、内部には氏の真骨頂とも云える叩き技法による青海波文が副次的装飾として無数に残っています。底部に「無庵」の彫銘が確認できます。氏とも縁の深い浩明老子の書付も嬉しいです。

作者
中里無庵
1895(明治28)年~1985(昭和60)年
重量
1,530g
口径
20.6×20.0cm
高さ
14.1cm
底径
16.9cm
次第
共箱

大徳寺512世 浩明宗然 書付
状態
完品(無傷)

使用感の少ない良好な状態を保っています。

Photo Gallery

12代 中里太郎右衛門(無庵) 1895(明治28)年~1985(昭和60)年

12代中里太郎右衛門は11代中里太郎右衛門の次男として佐賀県に生まれました。
本名を重雄、号を無庵といいます。
1914(大正3)年、佐賀県立有田工業学校別科を修了しました。
1927(昭和2)年、12代中里太郎右衛門を襲名しました。
1929(昭和4)年から古唐津古窯跡の発掘調査を行い、成形や焼成技法の研究を重ねました。
1941(昭和16)年、商工省より技術保存作家に指定されました。
1955(昭和30)年、文化財保護委員会より無形文化財として選択を受けました。
1957(昭和32)年、日本工芸会九州支部支部長代理に就任しました。
清宮貴子内親王殿下に御来窯御台臨を賜りました。
日ソ国交回復記念日本美術工芸展の出品作品がソ連文化省に買い上げられました。
1959(昭和34)年、秩父宮妃殿下に御来窯御台臨を賜りました。
日本伝統工芸展の出品作品が政府に買い上げられて国立近代美術館に陳列されました。
1961(昭和36)年、天皇・皇后両陛下が行啓の際に佐賀県献上の「叩き青唐津壷」を制作しました。
1962(昭和37)年、高松宮妃殿下に御来窯御台臨を賜りました。
1966(昭和41)年、唐津市より市政功労者として表彰を受けました。
佐賀県知事より県政功労者として表彰を受けました。
紫綬褒章を受章しました。
1967(昭和42)年、日本伝統工芸展の出品作品が文化庁に買い上げられました。
1969(昭和44)年、「唐津青井戸茶碗」が文化庁に買い上げられました。
勲四等瑞宝章を受章しました。
京都・大徳寺本山で得度し、
大徳寺512世浩明宗然より法名「洞翁宗白」、号「無庵」を授かりました。
1970(昭和45)年、「白磁壺」が大阪万国博覧会迎賓館に飾られました。
西日本文化賞を受賞しました。
1972(昭和47)年、三笠宮寛仁親王殿下、三笠宮百合子妃殿下に御来窯御台臨を賜りました。
1976(昭和51)年、重要無形文化財「唐津焼」の保持者(人間国宝)に認定されました。
1985(昭和60)年、勲四等旭日小綬章を受章しました。
桃山時代の素朴で力強い作風に魅了され、
御茶碗窯の伝承的技法である献上唐津に代わって古唐津陶技を復興させました。
今日における唐津焼の隆盛は氏の功績によるところが多く、
日本陶磁上の歴史にも名を残した唐津焼の第一人者です。


叩き造り

叩き造りとは素地土を叩き締めて形を造る成形技法です。
轆轤上に盤状の粘土を置いて底板とし、
粘土紐を輪状(コイル状)にして幾重にも積み上げていきます。
適当な高さにまで達したら当て板を器壁内部に当て、
ラケット状の叩き板で器壁外部を上下左右に満遍なく叩き伸ばしていく事で、
輪と輪が緊密に密着して器壁は薄く膨らみ、軽くて丈夫な器となります。
斜線文、格子文、青海波文等の刻目は土と密着しない為の工夫であり、
器形を整えると同時に内部には一種の副次的装飾が生み出されます。
最後に轆轤の水挽きで口縁を造り、底周りを削って仕上げていきます。
桃山時代の古唐津の成形に用いられた「叩き造り」を12代中里太郎右衛門(無庵)氏は再興し、
中里家の伝統的技法として昇華させました。


朝鮮唐津

朝鮮唐津とは鉄呈色の黒飴釉と失透性の藁灰釉を掛け合わせた唐津焼です。
黒飴釉と藁灰釉が溶け合った部分は絶妙な様相を呈した海鼠釉となり、
多くの蒐集家や茶人達を魅了し続けています。