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 天平堂
絵唐津筋文沓鉢(桃山~江戸初期)-y1

Special Preview先行紹介

絵唐津筋文沓鉢(桃山~江戸初期)

御売却済

豪快な気風に満ちた織部の影響を色濃く残す絵唐津沓鉢です。皮鯨となった口縁がより重厚感を添え、良く焼き締まった見事な伝世の土味に魅了されます。これまでに古唐津を超える焼物が造れない背景には歴史の重みに加え、桃山時代の陶工達が心に抱く、自然への畏敬の念、無心の境地、小手先ではなく、作陶に命を懸けて臨む精神性が極めて優れていたのだと思います。

商品コード
231216-1
時代
桃山~江戸初期
16世紀末期~17世紀初期
重量
470g
口径
18.8×13.4cm
高さ
7.4cm
底径
5.7cm
次第
時代箱
状態
口縁に入があります
胴裾部に窯疵があります

抜群の土味、美しい艶を帯びた釉調、伝世の優れた状態と一級品の条件を満たしています。

Photo Gallery

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Video

年表(桃山~江戸時代)


古唐津

唐津焼とは肥前国唐津藩を中心とした肥前地方で焼成された陶器です。
名称は唐津港から積み出しされた事に由来しており、
「一樂、二萩、三唐津」と謳われるように茶陶としても高い評価を受けています。
16世紀末期に佐賀県北部の唐津市北波多地区で、
岸岳城主・波多三河守親が朝鮮から陶工を召致して開窯したと推測されており、
この岸岳城下には唐津焼草創期の古窯跡が点在しています。
1593(文禄2)年に波多氏が豊臣秀吉の勘気に触れて改易されると、
岸岳陶工達は肥前各地に離散し(岸岳崩れ)、
寺沢志摩守広高が入封して肥前国唐津藩が成立しました。
波多氏改易と岸岳諸窯の廃業は、
1593(文禄2)年以前から古唐津が焼成されていた根拠の一つであり、
唐津焼創始については発掘調査や研究から天正年間(1573~92)頃と推測されています。
文禄・慶長の役(1592~98)で召致されてきた渡来陶工により、
桃山~江戸初期に素朴で優れた作品を多く焼成した隆盛期を迎える事になります。
文禄の役で豊臣秀吉が名護屋城に滞陣した際、
古田織部も1592(文禄元)年から約一年半滞在し、
唐津諸窯を直接指導した事が指摘されています。
又、連房式登窯も唐津から美濃に伝わって久尻元屋敷に築窯されており、
朝鮮からの技術導入が日本の窯業に齎した功績は計り知れません。
唐津焼の登場は「織部茶会記」に「唐津焼皿」という名称で1602(慶長7)年に初出し、
慶長年間(1596~1615)に集中して現れています。
17世紀中頃には「古唐津」という表記が茶会記で既に使用されています。
唐津焼はその殆どが一般庶民の日用品として量産された物ですが、
点茶が流行した桃山~江戸初期頃には茶人間の眼に留まって茶陶に見立てられました。
中には茶人や茶道具商による注文品もあり、
全体的な総数からすると極めて少ない事から特に高い評価を受けています。
17世紀に入ると唐津焼にとって大きな事件が生じる事になります。
渡来陶工・李参平(和名:金ヶ江三兵衛)による泉山陶石の発見と磁器焼成の成功です。
伊万里焼の生産拡大は唐津焼衰退に大きな影響を与えました。
江戸前期には三島唐津や二彩唐津に特色が見られるもの古唐津程の魅力は失われ、
以後は僅かに御用窯(御茶碗窯)が残るだけとなりました。
昭和初期頃に古唐津研究家の金原京一(陶片)氏、水町和三郎氏、古舘九一氏は、
肥前一帯の唐津古窯跡を次々と発掘して何万点という貴重な陶片資料を提供しました。
飾らぬ土味と郷愁を誘う豊かな色合いは朗らかさや健やかさに満ちており、
土と炎により生み出された芸術の真髄です。


古唐津と古田織部

古唐津と美濃焼は器形や意匠に多くの共通点を見出す事ができます。
文禄の役で豊臣秀吉が名護屋城に滞陣した際、
古田織部も1592(文禄元)年から約一年半滞在した事が伝えられています。
波多氏の後を受けて唐津藩主となった寺沢志摩守広高は織部とは同門の茶人であり、
美濃出身という事からも二人の仲は格別であったとされ、
織部が唐津諸窯を直接指導した事が指摘されています。
唐津で沓茶碗を焼成した諸窯は甕屋の谷窯(松浦系古唐津)、大川原窯(松浦系古唐津)、
高麗谷窯(多久系古唐津)、内田皿屋窯(武雄系古唐津)、牛石窯(平戸系古唐津)、
祥古谷窯(平戸系古唐津)、李祥古場窯(平戸系古唐津)等が著名で、
加藤景延がこれらの主要な窯を訪れた事が推定されます。
又、連房式登窯も唐津から美濃に伝わって久尻元屋敷に築窯されており、
朝鮮からの技術導入が日本の窯業に齎した功績は計り知れません。