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 天平堂

Special Preview先行紹介

堆形蓋御水指(河井寛次郎)

御売却済

現品は河井寛次郎氏が特別な思い入れを以って制作された作品の一つに数えられ、キレのある造形に海鼠釉の美しさが際立っています。棟方志功(1903~75)氏が「敬記」とされた識箱からも河井寛次郎氏を敬う信頼関係が垣間見えます。民藝運動の創始者として世界的に知られる柳宗悦氏の思想に共鳴した河井寛次郎氏と棟方志功氏は制作のジャンルは異なりながらも生涯を通じ、師弟として相互に影響を与え合いました。京都国立近代美術館、島根県立美術館に海鼠釉の同形品が所蔵されています。

⇒ 独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索(外部リンク)
⇒ 河井寛次郎と島根の民藝(外部リンク)

商品コード
230602-1
作者
河井寛次郎
1890(明治23)年~1966(昭和41)年
重量
2,170g
胴径
21.4×20.8cm
高さ
17.4cm
底径
12.5×12.3cm
次第
棟方志功 識箱
状態
完品(無傷)

洗練された厳しい造形、美しい釉色、優れた状態と一級品の条件を満たしています。

Photo Gallery

河井寛次郎 1890(明治23)年~1966(昭和41)年

河井寛次郎は島根県に生まれました。
1914(大正3)年に東京高等工業学校(現:東京工業大学)窯業科を卒業後、
京都市立陶磁器試験場に入所しました。
所長・藤江永孝や先輩技師・小森忍達の指導を受けながら、
2年後に入所した後輩の浜田庄司と共に技法の研究制作に励みました。
1920(大正9)年に京都市東山区五条坂に住居を設け、
5代清水六兵衛より譲り受けた窯を「鐘渓窯」と命名しました。
1921(大正10)年に東京と大阪の高島屋で第一回創作陶磁展覧会を開催し、
中国古典に倣った技巧的で精妙な作品群を発表しました。
陶磁史学者・奥田誠一達から斯会の新人として絶賛を浴び、
個展の回数を重ねるごとに精緻で高度な技法に非凡さを発揮して高い評価を獲得しました。
その一方で古陶磁に倣った技巧本位の制作に創作上の疑問を抱きますが、
1924(大正13)年にイギリスから浜田庄司が持ち帰ったスリップウェアに大きく感動し、
彼の紹介で柳宗悦と知り合った事を契機に雑器の美に開眼して創作への信念を見出します。
更に柳宗悦や浜田庄司達と「民芸運動」を興し、実践的な指導者として精力的に活動しました。
民窯の無銘性や伝統的な技法を窺わせる質朴な作調へと転じ、独自の作風を確立しました。
1929(昭和4)年、帝国美術院より帝展無鑑査に推挙されました。
1936(昭和11)年、東京・駒場に日本民藝館が開館しました。
1937(昭和12)年、パリ万国博覧会でグランプリを受賞しました。
日本各地の民家(主に飛騨高山)を範とした自宅(現:河井寛次郎記念館)を建築しました。
1947(昭和22)年、棟方志功の板木で『火の願ひ』を刊行しました。
1948(昭和23)年、『化粧陶器』、『いのちの窓』を出版しました。
1957(昭和32)年、ミラノ・トリエンナーレ展でグランプリを受賞しました。
1961(昭和36)年、雑誌『民藝』に「六十年前の今」の連載を開始しました。
終戦後は「用の美」から「造形の美」へと作風を変化させ、
用途にとらわれない自由な形状を持つ作品、
世界の民族芸術に関心を寄せて制作した木彫、
赤、緑、黒の釉薬を柄杓や太筆で大胆に打ち付けた作品「三色打薬」等を残しています。
民芸の精神を確固として保持しながら自由な創作世界を繰り広げ、
重要無形文化財保持者(人間国宝)や芸術院会員の勧告も固辞し、
無位無冠の一陶工を貫き通しました。
世界的な名声を得た近代日本を代表する陶芸家に数えられます。


重要無形文化財保持者(人間国宝)や芸術院会員の勧告を固辞

河井寛次郎氏は内報の度に辞退されているという事でしたが、
ある方が「なぜお断りになるのですか」と聞かれたところ、
「辞退しているのではないのだ。まだ私の順番が来ないのだ。
他に全国津々浦々には世に隠れて宝を創っている人達が一杯いるのだよ。
その人達が労いを受けた後に私の番が来るのだ。」と、
名誉や名声に関心を持たず、
「暮しが仕事、仕事が暮し」という名言の通り、
暮らしと創作の密接な関係において作陶活動を展開し、
無位無冠の陶工として最後まで真摯に作品に向き合いました。


棟方志功 1903(明治36)年~1975(昭和50)年

棟方志功は刀鍛冶職人・棟方幸吉の三男として青森県に生まれました。
1916(大正5)年、青森市立長嶋尋常小学校を卒業後、家業の鍛冶職を手伝います。
1921(大正10)年に文芸誌『白樺』に掲載されたゴッホの油彩「向日葵」に衝撃を受け、
油彩画家を志す決意を固めました。
松木満史、古藤正雄、鷹山宇一と洋画の会「青光画社」を結成しました。
1924(大正13)年、東京へ上京しました。
この頃に国画創作協会展に出品された川上澄生の「初夏の風」を見て感銘を受け、
1928(昭和3)年頃から版画を制作するようになりました。
1932(昭和7)年、日本版画協会会員となりました。
国画会展で奨学賞を受賞しました。
1936(昭和11)年、国画会展の出品作品「大和し美し」が日本民芸館に買い上げられました。
この出世作を機に柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司達の知遇を得て、
仏教や古典文学の知識を深めながら以降の棟方芸術に強固な独自の表現を切り開いていきました。
1938(昭和13)年に新文展で特選を受賞し、
これは官展で版画が受賞を果たした初の快挙となりました。
日本民芸館特別展に「観音経曼荼羅」を出品し、初めて「裏手彩」を試みました。
1940(昭和15)年、国画会展に代表作「二菩薩釈迦十大弟子」を出品しました。
1941(昭和16)年、佐分賞を受賞しました。
1942(昭和17)年以降は自らの木版画を「板画」と称して他の創作版画と差別化を図り、
木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けました。
1945(昭和20)年、富山県福光町に疎開しました。
東京大空襲で自宅を焼失し、多くの板木を失いました。
1946(昭和21)年、日展で岡田賞を受賞しました。
福光町栄町に住居を建て、谷崎潤一郎に「愛染苑」と命名され、
自宅の8畳間のアトリエを「鯉雨画斎」と名付けました。
1948(昭和23)年、「釈迦十大弟子」の板木を焼失した「文殊菩薩」、「普賢菩薩」を改刻しました。
1951(昭和26)年、疎開先の富山県福光町から東京都杉並区荻窪に転居しました。
1952(昭和27)年、国際版画展で優秀賞を受賞しました。
日本版画協会を脱会し、下沢木鉢郎達と「日本板画院」を創立しました。
ニューヨークのウィラード・ギャラリーで初の海外個展を開催しました。
1955(昭和30)年にサンパウロ・ビエンナーレで、
メタルールジカ・マタラッツォ賞(版画部門最高賞)を受賞しました。
1956(昭和31)年、板画院展で読売金賞を受賞しました。
ヴェネツィア・ビエンナーレで日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞しました。
1959(昭和34)年、ロックフェラー財団とジャパン・ソサエティーの招きで渡米しました。
ニューヨーク、ボストン、クリーブランド、シカゴ、シアトル、サンフランシスコ等の大学で、
板画の講義と個展を開催しました。
ニューヨークに「棟方ギャラリー」が開設されました。
1960(昭和35)年にクリーブランド美術館主催「棟方志功展」が、
シカゴ、シアトル、ロスアンゼルスで開催されました。
青森県褒賞を受賞しました。
1963(昭和38)年、藍綬褒章を受章しました。
倉敷市大原美術館に「棟方志功板画館」が開館しました。
この頃から眼病が悪化して左眼を殆ど失明しますが、
その旺盛な制作活動は晩年に至っても衰えを見せませんでした。
1965(昭和40)年、日本の木版画に尽くした功績により朝日文化賞を受賞しました。
セントルイスのワシントン大学とニューヨークのジャパン・ソサエティーの招きで再度渡米し、
ワシントン大学で「日本の木版画」について講義しました。
イタリア・フローレンス学士院から名誉会員に推挙されました。
ダートマス大学から名誉文学博士号を授かりました。
紺綬褒章を受章しました。
1967(昭和42)年、日本板画院名誉会長に就任しました。
1968(昭和43)年、青森市民功労賞を受賞しました。
1969(昭和44)年、青森市初代名誉市民の称号を受けました。
1970(昭和45)年、毎日芸術大賞を受賞しました。
文化勲章を受章しました。
文化功労者として顕彰を受けました。
板画の他に自ら「倭画」と名付けた即興的な日本画を数多く制作して大衆的人気を獲得しました。
1971(昭和46)年、佐藤尚武郷土大賞を受賞しました。
1973(昭和48)年、鎌倉市に「財団法人棟方板画館」が設立されました。
1974(昭和49)年、放送文化賞を受賞しました。
1975(昭和50)年、日展常任理事に就任しました。
肝臓癌で逝去し、従三位を追贈されました。
青森市に「棟方志功記念館」が開館されました。
存在感あふれる女性美と宗教的な表現で独自の世界を築き上げ、
自然と人間の生命の逞しさ、美しさを強烈に印象付け、
「世界のムナカタ」として多くの人々に愛され続ける20世紀を代表する巨匠です。