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TENPYODO

Rosanjin Kitaoji

北大路魯山人

Rosanjin Kitaoji 1883-1959


Childhood

Rosanjin Kitaoji was born in Kyoto as the second son of Kiyoaya Kitaoji.
Real name is Fusajiro, alias Kaisa, Rokei, Rosanjin and Mukyo.
At the same time as birth, grew up in an adversity that changed his family.
In 1889, adopted by wood engraver Takezo Fukuda.
In 1893, after graduating from Umeya Jinjyo Primary School, went to apprentice apprenticeship at the chinese medicine store “Chisaka Wayakuya” in nijo karasumi.
In 1895, impressed with Seiho Takeuchi’s japanese painting at the 4th National Industrial Exhibition, wanted to be a japanese painter.
In 1896, quit his apprenticeship and asked his adoptive father to go to the Kyoto Prefectural School of Painting, but it was not granted, and helped the family business with woodblock printing.
In1897, wanted to be a calligrapher.


Calligraphy Talent Blooms

In 1899, the western signboards make a lot of income and are called “Teacher” in the neighborhood.
In 1904, Received the first and second prize at the Japanese Art Exhibition.
The award winning work was bought by minister of the imperial household Mitsuaki Tanaka.
In 1905, studied under calligrapher Katei Okamoto.
Written by Teikoku Life Insurance Company as “Kaitsu Fukuda”.
In 1907, independent of Katei, the sign of professor calligraphy was raised as “Outei Fukuda”.
In 1908, married Tami Yasumi.
Get acquainted with Rihachi Fujii and know his daughter Seki.
In 1910, went to korea with mother Tome.
In 1911, Became the secretary of the Korean Printing Bureau.
In 1912, met with Goshoseki in Shanghai.
In 1913, named “Taikan”, which means “Overlooking the World”.
While holding the calligraphy classroom, gained the reputation through writing and seal engraving.
Met Seiho Takeuchi and was asked to produce the seal.
In 1914, divorced with Tami.
In 1915, “Kitaoji” has been restored to the last name.
Become the house guest of Entai Hosono in Kanazawa, try to underglaze blue and overglaze polychrome enamel under Seika Suda through Entai.
In 1916, married Seki Fujii.
Named “Taikan Kitaoji” and “Rokei Kitaoji”.


“Taigado Art Store” and “Bishoku Club”

In 1917, met Takeshiro Nakamura.
In 1919, established “Taigado Art Store” with Takeshiro Nakamura in Tokyo kyobashi. Moved to the rental house in North Kamakura. From around this time, started using the alias “Rosanjin”.
In 1920, renamed as “Taigado Art Store”. The dish will be served the old ceramics at the Taigado Art Store.
In 1921, membership system “Bishoku Club” was established on the second floor of Taigado Art Store. Moved to North Kamakura.
In 1922, began producing tableware for Bishoku Club at the Seika Suda kiln and Tozan Miyanaga kiln. Officially inherited the family and named “Rosanjin”.
In 1923, Taigado Art Store and Bishoku Club were destroyed by the Great Kanto Earthquake. The Bishoku Club will be reopened at the “Hana no Chaya” in Shiba Park.


会員制高級料亭「星岡茶寮」の開業

1924(大正13)年に宮永東山窯で青磁や茶寮用の器を100人前の5,000点超を制作し、
同窯で工場長を務めていた荒川豊蔵と知り合いました。
東京赤坂山王台の日枝神社境内にあった「星岡茶寮」を借り受けて改修工事を開始しました。
星岡茶寮開業の資金調達に支那古文具の販売を思い付き、
支那文具に詳しい内海羊石を誘って上海の呉昌碩を訪ね、
帰国後に販売して大きな利益を得ました。
1925(大正14)年、会員制高級料亭「星岡茶寮」を開業しました。
中村竹四郎が社長、魯山人は顧問兼料理長として接待、器に対する卓抜な演出で評判を取り、
官、財、政界の社交場として急激に会員を増やしていきます。
眞清水蔵六窯で小山冨士夫と知り合います。


「星岡窯」を築窯

1927(昭和2)年に星岡茶寮で使用する理想となる器を求めて、
神奈川県鎌倉市山崎に「星岡窯」を築窯しました。
宮永東山窯の荒川豊蔵を窯場主任に迎え、
窯場に魯山人の蒐集品を陳列した「古陶磁参考館」、茶室「夢境庵」を建て、
「魯山人窯藝研究所 星岡窯」の看板を揚げました。
せきと協議離婚し、中島きよと結婚しました。
「坐辺師友」をモットーに織部、志野、黄瀬戸等の美濃焼系を始め、
乾山、仁清、道八等の京焼系の物にまで造形の理想を求めた幅広い作陶を展開しました。
1928(昭和3)年、久邇宮両殿下に御来窯御台臨を賜りました。
1929(昭和4)年、カルピス社長・三島海雲が星岡茶寮の支店として銀座に「銀茶寮」を開業しました。
1930(昭和5)年に荒川豊蔵が志野陶片を大萱の牟田洞で発見すると、
現地に赴いて美濃諸古窯の発見を主なテーマとして「星岡」を刊行しました。
1933(昭和8)年、銀茶寮が星岡茶寮の直営となりました。
1935(昭和10)年、「大阪星岡茶寮」を開業し、関西の食通人に好評を博しました。
カルピス社長が開業した「銀茶寮」を直営化する等の経営規模を拡大しましたが、
この頃から運営方針をめぐって中村竹四郎との関係が悪化します。
瀬戸式大登窯による初窯で志野、織部、黄瀬戸等の桃山陶再現に成功しました。
星岡茶寮の会員総数は二千数百名となり、
「星岡の会員に非ざれば日本の名士に非ず」と言われるようになります。
1936(昭和11)年、放漫経営を理由に中村竹四郎より解雇通知を受けました。
看板を「魯山人雅陶藝術研究所」に掛け替え、
星岡窯を拠点に作陶一本で進む決意を固めます。
この頃から徐々に「魯卿」の名を使う事が減ってきます。


星岡窯を拠点とした作陶生活

解雇による自信喪失した魯山人の有様を見て、
「わかもと」の長尾欽弥や支援していた企業のトップから贈答用の陶磁器制作の依頼が来て、
次第に自信を取り戻していきます。
1938(昭和13)年、きよが元星岡窯の職人と駆け落ちして離婚しました。
日本橋・白木屋本店地階食料品売場に山海珍味を取り寄せて販売する「山海倶楽部」を開店しました。
この頃より良寛に傾倒し始めます。
熊田ムメと結婚しました。
1939(昭和14)年、ムメと協議離婚しました。
料理旅館の食器として陶磁器や漆器を大量に制作しました。
特に東京の「福田屋」、名古屋の「八勝館」等は魯山人所縁の料亭として有名です。
1940(昭和15)年、中道那嘉能(芸者・梅香)と結婚しました。
絵画を描く事に傾注しました。
1942(昭和17)年、那嘉能と離婚し、以後は再婚しませんでした。


戦中時代

1943(昭和18)年には戦時色が強くなって物資統制もあり、
火が使えない状況になると髹漆(漆芸)に没頭しました。
1945(昭和20)年、大阪星岡茶寮、東京星岡茶寮、銀茶寮が空爆で焼失しました。
中村竹四郎との10年間に亘る資産問題が示談解決(星岡窯は魯山人、蒐集品は折半)。
1947(昭和22)年、城野豊子が銀座に魯山人の専売店「火土火土美房」を開店しました。
魯山人作品が占領軍の将校達の目を引いた事で、
日本人だけを相手にしてきた魯山人の意識に一大変革が起きてグローバル化していきます。
真船豊達が魯山人を囲んで芸術愛好会「生新倶楽部」を発足しました。
1948(昭和23)年、「魯山人工藝處」が誕生しました。
戦時中に休んでいた星岡窯が再開されました。


晩年期

1949(昭和24)年、伊部の金重陶陽の窯をしばしば訪れるようになります。
1951(昭和26)年、南仏・ヴァロリスの現代日本画陶芸展でピカソが魯山人の「紅志野皿」を激賞。
1952(昭和27)年、イサム・ノグチと伊部の金重陶陽の窯を訪問して備前作品を制作しました。
1953(昭和28)年、金重陶陽や藤原啓が来窯して自邸に備前焼の窯を築窯しました。
1954(昭和29)年にイサム・ノグチの勧めもあり、
日米協会の会長をしていたロックフェラーの招きを受け、
約200点の作品と共にアメリカ各地を廻って講演会や展覧会を開催しました。
ニューヨークの近代美術館(MoMA)やワシントンのフリーア美術館等で好評を博しました。
1955(昭和30)年、前田友斎の紹介で善田昌運堂の善田喜一郎を知ります。
重要無形文化財「織部焼」の保持者(人間国宝)に勧告を受けるも辞退しました。
1959(昭和34)年、ジストマ虫による肝硬変で逝去しました。


人格的に毀誉褒貶定まらず、
晩年の魯山人は世評が極めて悪かったので、
没後の作品は埋もれていくかに思われましたが、
アメリカで起きた魯山人ブームが逆輸入されると作品の価格は瞬く間に上昇しました。
画家、篆刻家、書道家、料理家、陶芸家、漆芸家として各方面に優れた実績を残し、
古陶磁にも眼識を持って美食と本物の器を求め続けました。
「器は料理の着物」という言葉に体現されるように和食の魅力を追求した革新に挑み、
魯山人が実践した様々な試みは今や和食文化の一部として受け継がれています。
焼物本来の実用性を重視した見識が近年の食や器への関心に導いた功績は多大です。
優美さと奥深さを備えた自由奔放な作行を示しており、
中でも楽焼の色絵椿文鉢、織部や備前の俎皿等に独自性が最もよく発揮されています。
漫画『美味しんぼ』の登場人物・海原雄山のモデルとしても知られています。

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