鍋島焼
Nabeshima Ware
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鍋島焼
鍋島焼とは肥前国佐賀藩鍋島家の庇護の下、
松浦郡大川内山の鍋島藩窯で焼成された精巧で格調高い特別誂えの磁器です。
日本では唯一の官窯的性質を持ち合わせた世界に誇れる最高傑作品であり、
その技術練度は柿右衛門様式を遥かに凌ぎ、極めて高い評価を確立しています。
最上質の物は中国の御器廠(官窯)に比肩しうるといっても過言ではありません。
将軍家への献上を目的として幕藩体制における公儀権力への忠誠服従の表徴、
更に諸大名との公誼和親の証に藩外へ散布されました。
伊万里焼のように販売を目的とした物ではなく、
江戸時代を通して採算度外視で焼成している為に一般には全く市販されませんでした。
藩窯の基本姿勢であった茶陶路線は執らず、皿を中心とした実用器に焦点を当てました。
肥前地方では焼物の生産地区を「山」と呼び、
鍋島藩では御用品を焼成する窯場を「御道具山(鍋島藩窯)」と称しました。
又、「(御)留山」とは御殿様の窯場という最高の敬意を含んだ呼称です。
鍋島藩窯には肥前諸窯から最高練度の技術をもつ職人が召致され、
他窯場と離れた幽境で厳格な組織下に藩窯の作風確立が図られました。
陶工は31人、生産数は年間5,031個と幕末の記録に残っています。
尚、出入り口には関所を設けて関係者以外の通行を禁止し、
このような厳重な警戒態勢を極めていたのは藩窯秘技の漏洩を防ぐ為でした。
ここで働く職人は全て名字帯刀を許可され、一切の公課は免ぜられたと伝えられます。
有田町の中心から直線にして北に約5kmの鍋島藩窯跡へ行くには遠回で迂回せねばならず、
その行程となると8kmは十分にあり、鍋島藩窯を隔離する上で適当な距離でした。
生産は中国の御器廠に倣った各専門による分業体制で自己の最善が尽くされました。
1枚の皿といえども多数の職人の手を経ています。
運搬中の破損事故も考慮して製品は余分に造られ、
基本は20枚一組で献上された事が伝えられています。
盛期は優れた技法に裏付けされた最高峰の技術が集約されており、
染付や青磁がありますが、最も主たるものは世にいわれる「色鍋島」です。
色鍋島は染付で輪郭線を描いて赤、緑、黄の基本色で枠内に上絵付けをします。
この技法は明時代・成化年間(1465~87)の「豆彩(闘彩)」を踏襲して洗練された技術を示し、
労力を惜しまない採算度外視の御用窯だからこそ実現する事ができました。
文様の特徴は中国や朝鮮の図案影響を脱して和様の情趣を反映しているところにあり、
自然界の植物文を中心に独自の洗練された風格を持ちます。
又、山水や能衣装、桃山・江戸時代の絵手本からも画題を取り入れています。
代表的な器形は轆轤成形による「木盃形」という高い高台に特色がある皿です。
通常の有田民窯に比べて高台が高いというのは格式を演出する意味合いも考えられます。
高台の外面周囲には多くの作品に「櫛歯文」と呼ばれる特殊な模様が染付で描かれており、
当時は基本的に鍋島藩窯だけに許された技法で他窯においては厳重に禁じられました。
盛期は染付で輪郭線を描いた中に濃みを入れていく綿密な手法を執っていますが、
時代が下がるに連れてだんだん長くなって乱れ出し、
次第に簡略化された一本線で描かれるような退化傾向が現れます。
製品には検査役員の数回に及ぶ厳重な検査が行われ、
選考された合格品だけが藩に納められ、欠点をもつ不合格品は残らず破砕されました。
1871(明治4)年の廃藩置県によって鍋島藩窯も廃窯となりました。
岩谷川内藩窯の草創期鍋島
関ヶ原の戦いで反徳川方(西軍)であった肥前国初代佐賀藩主・鍋島勝茂は、
輸入した中国磁器を将軍家に献上して関係修復に務めました。
1644(正保元)年に中国の明清王朝交替に伴う内乱で中国磁器の輸入が困難になった結果、
それに代わる将軍家献上に相応しい特別な磁器開発が急務となり、
有田の岩谷川内藩窯(御道具山)に命じられたと推測されています。
この試作品は1651(慶安4)年に3代将軍・徳川家光の内覧を受け、
鍋島焼の例年献上が始まったと考察されています。
岩谷川内藩窯の草創期鍋島と推定できるのは、
「松ヶ谷手」として分類されてきた変形皿や猪口が中心の一群です。
裏面文様や高台内に銘を施さない白地となっており、
目跡がない事は有田民窯と一線を画します。
高台畳付きは三面を丁寧に削り出している特徴があり、
細く深い高台を仕上げるには熟練の卓越された技術を要しました。
その後は徐々に角が目立たなくなる平たい高台が増え、
更に丸みを帯びていくようになります。
目跡を除き、歪まないよう焼き上げる方法として、
素焼きと匣鉢の使用は不可欠でした。
1650年代に猿川窯では上手の一部作品に素焼きが行われています。
色絵は染付や赤線で輪郭線を描いて試行錯誤を繰り返していた時期といえます。
鍋島焼は将軍家献上を目的とした為、
幕藩体制の絶対権力・徳川将軍家の動きに敏感に反応して変遷を遂げました。
1659(万治2)年からV.O.C(オランダ東インド会社)との本格的な輸出時代を迎えるに当たり、
1660年代頃には別格の藩窯(御道具山)を有田から切り離して、
秘密保持に適した険しい山に囲まれた大川内山(伊万里市)に移窯しました。
この有田鍋島時代を経て、
大川内山の鍋島藩窯で本格的に確立統制される事になります。
松ヶ谷手
松ヶ谷手とは古九谷様式とは異なりながら、
初期鍋島(古鍋島)の造形や釉彩に共通点が認められる変形皿や猪口を中心とした一群です。
嘗ては佐賀藩の支藩となる小城藩で焼成された「松ヶ谷焼」と推測され、
古陶磁愛好家を中心に「松ヶ谷手」として提唱されてきましたが、
様々な研究結果から松ヶ谷焼ではない事が明らかになりました。
松ヶ谷手の伝世品と一致する色絵素地の陶片が、
岩谷川内の猿川窯から出土しており、
鍋島藩窯(大川内山)に先行する岩谷川内藩窯(御道具山)の作品として位置付けされています。
松ヶ谷手の主な特徴
- 素焼きが行われている。
- 歪みのない完璧な磁器。
- 裏面に在銘がない。
- 高台内に目跡がない。
- 高台畳付を三面に削り出して、砂が熔着するのを防ぐ。
- 口径が15.0cm位の変形皿と筒形の猪口が多い。
初期鍋島(古鍋島)
初期鍋島(古鍋島)とは1660年代を中心に鍋島藩窯で焼成された作品です。
大川内山での初期藩窯は日峯社下窯(日峯社とは鍋島直茂を祀る神社)であり、
一般向け製品と、献上用の精緻な高級磁器を併用焼成していました。
皿の器形は浅いのですが、
規格が定まった木盃形が見られるようになります。
やや濃厚な色調で五寸皿、変形皿を中心とし、
染付や色絵の他に青磁、瑠璃釉、銹釉等も併用されています。
色絵は染付や赤線で輪郭線を描いて試行錯誤を繰り返していた時期といえます。
高台文様は四方襷文、波濤文、ハート繋文、鋸歯文、雷繋文、剣先蓮弁文、七宝結文等が多く、
盛期以降に主流となる櫛歯文は少ないです。
盛期のような規格が厳しい約束事に囚われる事のない力強い作品が多く、
猪口も数多く造られました。
盛期鍋島
盛期鍋島とは1670~1730年代に鍋島藩窯で焼成された作品です。
1693(元禄6)年に2代藩主・鍋島光茂の名で藩庁から有田皿山代官へ発された手頭によると、
献上品の厳しい管理や納入期限を厳守する事、
いつも同じ意匠の図柄ではなく、
脇山(有田民窯)の意匠でも良い物は取り入れて斬新で優れた磁器を造る事、
藩窯技術の漏洩を防ぐ為に脇山からの細工人の立ち入りを禁じる事、
不出来作品は藩窯内で割り捨てる事、
脇山で優れた技術者を発見した場合は連れてくる事、
以前から勤めている技術者でも下手な者は解職させる事等の大革新が謳われており、
以後の作風は大変革を遂げました。
実際に鍋島文様を見ていくと相対的に有田民窯での使用が古いと考えられる例が多いです。
高台を塗り潰した櫛歯文も脇山では1640~50年代に猿川窯等の例があり、
ぼかし濃みも柿右衛門窯や南川原窯ノ辻窯等で完成した技術が、
盛期鍋島に洗練された形で現れます。
絵画調の図案を主流に中央白抜き法の導入を始めとした技術が冴え渡り、
完成度を極めた精巧無比の日本磁器の頂点に相応しい最盛期を迎えました。
代表的な色鍋島の多くがこの時代に造られ、技術的に困難であった大皿も多く手掛けられました。
皿の曲線も均整の取れた見事なバランスを保っています。
通常の有田民窯に比べて高台が高いというのは格式を演出する意味合いも含まれており、
裏側面の文様は櫛高台に七宝結文の組み合わせが主流となります。
特殊な事例として一部作品に金彩も確認されています。
後期鍋島
江戸後期以降の鍋島焼は技術的に精緻さが失われる他、
高台内に紀年在銘や制作者記号を入れた物が現れる等、
制作に当たっての制約にも緩みが生じてきます。
8代将軍・徳川吉宗(1684~1751)は幕府財政の再建を目的として「享保の改革」を行いました。
1722(享保7)年に贅沢品や華美な物を廃す倹約令が出され、
1726(享保11)年に幕府より例年献上陶器に種類の多い色絵具で装飾した物は制限し、
青磁はこれまで通りと命じられました。
こうして最盛期を彩った色数の多い色鍋島は消え、
赤色や二色の色鍋島は例年献上以外で少量のみ焼成されましたが、
染付、次いで青磁が圧倒的な数を占めるようになります。
後期以降の裏文様には牡丹唐草(蟹牡丹)文が圧倒的に増加し、
櫛高台に七宝結文の組み合わせは、
牡丹唐草文の裏文様よりも相対的に粗放な作行の物が多く、
例年献上以外の贈答や藩用品として造られた可能性が強いように考えられます。
寛政年間(1789~1801)頃からは町人層へも広く鍋島焼は流通していたと考えられています。
江戸後期以降の全国諸藩の財政は極度に悪化していたと考えられており、
藩より富豪商人への借銀返済の一端として使用されたと思われる例も確認されています。
鍋島藩から直接的に町人層へ渡っていたとは考え難いのですが、
富豪商人を経て、最終的に経済的優位な状況にあった町人層へも流通したと考えられます。
鍋島藩は幕末に外国船が来航する長崎での防備の経済的負担が大きくなった為、
幕府に願い出る事で初めて、
1857(安政4)年に例年献上を5年間免除されました。
将軍家御好みの意匠・十二通り
各大名家から徳川家へは「月次献上」として毎月様々な品物が納められていました。
鍋島焼は11月の献上品であり、
1770(明和7)年には鉢2枚、大皿20枚、中皿20枚、小皿20枚、
茶碗と皿と猪口の内20個をセットとして5箱分が献上されたという記録が残されています。
20枚1組となる皿類は組食器として同文様で構成されていました。
この月次献上に合わせ、多くの幕府高官、佐賀藩と縁のある諸役人、親戚等へも贈答された為、
相当な点数が造られた事が窺えますが、
現在では散逸して、組食器としての本来の姿を偲ぶことができる例は貴重です。
10代将軍・徳川家治時代の1774(安永3)年に佐賀藩は献上陶器についての指示を受け、
以後の将軍家献上の鍋島スタイルが確立されます。
詳細は「例年献上の陶器五品の中に十二通りの品から二・三品を含めるように」という事でした。
この「将軍家御好みの意匠・十二通り」に該当する作品は、
梅絵大肴鉢、牡丹絵中肴鉢、菊絵大角皿、山水絵中角皿、山水絵長皿、遠山霞絵長皿、
折桜絵長皿、金魚絵船形皿、萩絵丸中皿、葡萄絵菊皿、蔦絵木瓜形皿、松千鳥絵猪口です。
鍋島青磁
日本では鎌倉時代以来に大陸渡来の青磁(唐物)が珍重され、
鍋島藩も青磁には特に力を入れていました。
大川内山(鍋島藩窯)では良質の青磁鉱石が採掘できる為に移窯したという説も知られます。
こうして鍋島藩は清澄で素晴らしい日本屈指の青磁を生み出し、
優れた作品におきましては砧青磁も髣髴とさせる青磁色を呈しています。
鍋島青磁は中国の砧青磁や郊壇官窯青磁を狙った作品です。
釉薬は大川内山二本柳で採集される天然の青磁鉱石に最上の柞灰を混ぜており、
この柞灰によって最盛期の柔らかく、美しい肌が生み出されました。
青磁は幾重にも釉層を重ねていく事によって深みのある発色となるのですが、
その度に窯入れして焼成しなければなりませんので、多くのリスクを伴いました。
将軍家や諸大名への献上を目的とした鍋島は日本の官窯的性格を持ち合わせている為、
青磁焼成におきましても採算度外視されました。
一般的な青磁は単味の青磁釉を施しただけの物が多いのですが、
鍋島青磁では染付や色絵を併用した高度な作例も確認されています。
青磁釉下に呉須が入った鍋島の青磁染付は胎土に最低2回は青磁釉が施されており、
その上に呉須を入れて再び青磁釉を掛けて焼成します。
このように最低でも3回は焼成されるという入念周到な制作過程を経ています。