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 天平堂

三輪休雪

Kyusetsu Miwa

三輪休雪


初代 舜陶軒休雪 1630(寛永7)年~1705(宝永2)年

初代舜陶軒休雪は赤穴内蔵之助の子として生まれました。
本名を忠兵衛利定、号を休雪・普入といいます。
祖父は文禄・慶長の役の際に毛利一門の宍戸元続によって召致されてきた渡来陶工で、
石見国(島根県西部)で陶業を営んでいましたが、
毛利輝元の萩入封に際して蔵之助は萩に移住して小丸山に築窯したとされています。
1663(寛文3)年に佐伯家と共に萩藩の御雇細工人として召し抱えられました。
1682(天和2)年に初代佐伯半六が死去して2代となる子が幼少の為、
藩命により無田ヶ原の佐伯窯を継承して現在に至るまで陶業を続けています。
三輪家が佐伯窯を継承した事で2代佐伯半六は松本御用窯(松本萩)に従事しましたが、
3代佐伯半六の時に大釜という地に築窯して独立しました。
3代佐伯半六は赤川助右衛門の孫・赤川四郎右衛門の次男として生まれ、
坂家の養子から佐伯家の養子となりましたが、
1745(延享2)年に佐伯家の先祖である「林姓」に改姓して「林半六」と名乗りました。
1817(文化14)年の6代林半六の時に子息出奔の咎によって林家は断絶しました。
1700(元禄13)年、3代藩主・毛利綱広の命で京都に赴いて樂家で技法を伝習しました。
李朝陶技に樂焼を導入するという萩焼技術史上において画期的な事項となりました。
以後、三輪家では代々藩主の求めに応じて樂焼も制作されました。


2代 弥兵衛利成 生年不詳~1728(享保13)年

2代弥兵衛利成は初代三輪休雪の三男として生まれました。


3代 忠兵衛利以 生年不詳~1729(享保14)年

3代忠兵衛利以は初代三輪休雪の長男として生まれました。


4代 休雪利之 生年不詳~1764(明和元)年

4代休雪利之は3代忠兵衛利以の養子となりました。
1744(延享元)年、藩命で初代三輪休雪に続いて京都の樂家で技法を伝習しました。


5代 勘七利近 生年不詳~1803(享和3)年


6代 両蔵利武 生年不詳~1845(弘化2)年


7代 源太左衛門利興 生年不詳~1865(慶応元)年


8代 雪山泥介 1840(天保11)年~1921(大正10)年

8代雪山泥介は本名を陶蔵、泥介とも名乗りました。
1865(慶応元)年、三輪家8代を襲名しました。
青年時代は高杉晋作の率いた奇兵隊に身を投じた程の客気でしたが、
健康上から国事を諦めて家業に復帰しました。
磁器製造の技術もあったとされ、東光寺焼等の他窯指導も行っています。
幕末から明治にかけての激動期に活躍した名工として知られており、
10代三輪休雪の指導も行いました。


9代 三輪雪堂 生年不詳~1953(昭和28)年

9代三輪雪堂は本名を録郎といいます。


10代 三輪休雪(休和) 1895(明治28)年~1981(昭和56)年

10代三輪休雪は9代三輪雪堂の次男として山口県萩市に生まれました。
本名を邦廣、号を休雪(襲名後)・休和(隠居後)といいます。
幼少時において剛直な祖父・8代三輪雪山から陶工としての薫陶を受けました。
1910(明治43)年、祖父の勧奨で萩中学校を中退し、家業に従事しました。
1923(大正12)年、大正天皇銀婚式奉祝の際に山口県知事献上の「郭子儀置物」を制作しました。
1926(大正15)年、東宮殿下が萩町行啓の際に山口県知事献上の「布袋置物」を制作しました。
1927(昭和2)年、10代三輪休雪を襲名しました。
1928(昭和3)年、今上陛下御大典奉祝の際に山口県知事献上の「寿老人置物」を制作しました。
1929(昭和4)年、毛利公爵家より梨本宮殿下へ献上の「桃坊朔置物」を制作しました。
閑院宮殿下が萩町行啓の際に萩町献上の「布袋置物」と「玉取獅子置物」を制作しました。
毛利公爵家より秩父宮殿下へ献上の「郭子儀置物」を制作しました。
1933(昭和8)年、澄宮殿下が山口県行啓の際に山口県町村長会献上の「玉取獅子置物」を制作しました。
1934(昭和9)年、毛利元昭古稀奉祝の際に萩懐恩会献上の「桃坊朔置物」を制作しました。
1935(昭和10)年に愛国婦人会総裁・東伏見宮妃殿下が山口県行啓の際に、
愛婦山口県支部と毛利公爵家献上の「玉取獅子置物」と「夏・冬茶碗」と「高彫唐草文大花瓶」を制作しました。
1936(昭和11)年、閑院宮両殿下が行啓の際に毛利公爵家献上の「大花瓶」を制作しました。
1938(昭和13)年、山口県立萩図書館講座講師に就任しました。
1941(昭和16)年に川喜田半泥子が三輪窯へ来遊した事を機に、
翌年の1942(昭和17)年に三重県津市の半泥子宅に招かれ、
川喜田半泥子、荒川豊蔵、金重陶陽と「からひね会」を結成しました。
茶陶の本格的な近代化はここに始まり、桃山陶磁の研究も一層進展しました。
1943(昭和18)年、技術保存法指定作品山口県認定委員に就任しました。
萩焼における工芸技術保存資格者として指定を受けました。
1948(昭和23)年、芸術陶磁認定委員、萩焼美術陶芸協会副会長に就任しました。
1954(昭和29)年、表千家同門会山口県支部が結成されて理事に就任しました。
1955(昭和30)年、自在庵保存会長に就任しました。
全日本産業工芸展で会長賞を受賞しました。
1956(昭和31)年、山口県指定無形文化財に認定されました。
1957(昭和32)年、山口県陶芸協会が創設されて会長に就任しました。
文化財保護委員会より「記録作成等の措置を構ずべき無形文化財」として選択を受けました。
「三輪休雪後援会」が設立されました。
日本工芸会正会員となりました。
1959(昭和34)年、水指が文化財保護委員会に買い上げられました。
松蔭百年祭の記念品として表千家13代即中斎宗左好みの茶碗100個を制作しました。
松蔭百年祭献茶会長に就任しました。
山口県美術展審査委員に就任しました。
山口県陶磁協会が萩焼陶芸協会に改組されて会長に就任しました。
1960(昭和35)年、茶碗がスペイン国立民族博物館に買い上げられました。
1961(昭和36)年、萩焼陶芸協会が「萩焼陶芸作家協会」に改組されて会長に就任しました。
即中斎宗左の還暦記念茶碗60個を制作しました。
大阪商工会議所の委嘱によりマッカーサー元師へ贈呈の花瓶を制作しました。
中国文化賞を受賞しました。
1963(昭和38)年、山口国体開催の際に山口県知事より天皇陛下献上の花瓶を制作しました。
萩市文化財審議委員に委嘱されました。
1964(昭和39)年、山口県選奨(芸術文化功労)を受賞しました。
1965(昭和40)年、自在庵保存会長を辞任して相談役に就任しました。
古稀記念作品として天皇陛下、皇太子殿下、各宮家に茶碗を献上しました。
1966(昭和41)年、参議院の委嘱により朝永振一郎ノーベル賞受賞祝賀贈呈の花瓶を制作しました。
茶碗が文化財保護委員会に買い上げられました。
1967(昭和42)年、文化財保護委員会より三輪休雪の技術記録が作成されました。
茶碗と水指が文化財保護委員会に買い上げられました。
弟・節夫に家督を譲って隠居し、「休和」と号しました。
この後、個展活動を休止して一作一作に手間をかけた制作活動に入ります。
三輪神社、伊勢神宮に茶碗を奉納しました。
萩市制35周年記念「産業功労者」として表彰を受けました。
紫綬褒章を受章しました。
1968(昭和43)年、参議院の委嘱により川端康成ノーベル賞受賞祝賀贈呈の「獅子置物」を制作しました。
1969(昭和44)年、山口放送KK・山口県善行者表彰を受けました。
1970(昭和45)年、11代三輪休雪の次男・栄造を養嗣子としました。
重要無形文化財「萩焼」の保持者(人間国宝)に認定されました。
1971(昭和46)年、日本工芸会主催の萩焼研修会講師に就任しました。
1972(昭和47)年、茶碗を明治神宮、伊勢神宮、三輪明神、出雲大社に奉納しました。
萩市名誉市民の称号を受けました。
日本伝統工芸展の出品作品が文化庁に買い上げられました。
1973(昭和48)年、勲四等旭日小綬章を受章しました。
茶碗を伊勢神宮、生田神社に奉納しました。
1974(昭和49)年、茶碗が迎賓館別館茶室に買い上げられました。
常陸宮両殿下に御来窯御台臨を賜りました。
1975(昭和50)年、「伝統の萩焼と高麗茶碗・古萩名品展」の実行委員に就任しました。
日本伝統工芸展の出品作品が文化庁に買い上げられました。
10代三輪休雪の時代は他の窯業地と同様に萩焼においても陶業者の転廃業が相次ぎました。
三輪家も家業を維持する事に懸命でしたが、
旧藩主・毛利家の紹介で財界茶人所蔵の名器を拝見する等の陶磁研究を怠りませんでした。
萩焼の源流である高麗茶碗の研究に打ち込みながら桃山茶陶の研究を重ね、
温雅な趣に富んだ休和様式を確立させました。
休雪白に代表されるその技法は伝統ある萩焼に新境地を開拓し、
国の重要無形文化財(人間国宝)にまで認定されました。
近代になって低迷していた萩焼を空前の繁栄に導いた功労者で、
文人的素養を秘めた休和陶芸は不滅の功績を残しました。


11代 三輪休雪(壽雪) 1910(明治43)年~2012(平成24)年

11代三輪休雪は9代三輪雪堂の三男として山口県萩市に生まれました。
本名を節夫、号を休(襲名前)・休雪(襲名後)・壽雪(隠居後)といいます。
1927(昭和2)年に山口県立萩中学校を卒業後、
兄・10代三輪休雪(休和)に師事して家業に従事しました。
1941(昭和16)年に三重県津市の千歳山窯で川喜田半泥子に師事し、
短期間でしたが精神的な面で大きな影響を受けたとされています。
1955(昭和30)年、「休」と号して自己作品の発表を開始します。
これまでの約30年という長い年月は下職として三輪窯を支えながら、
置物造りを始めとした基礎的修練に明け暮れていました。
「休」とは兄に対する尊敬の念から、
心・技共に休雪の半人前であると卑下した奥床しい心情が滲み出た号でした。
1960(昭和35)年、日本工芸会正会員となりました。
1961(昭和36)年、山口県芸術文化振興奨励賞を受賞しました。
1963(昭和38)年、山口国体開催の際に山口県より天皇陛下献上の作品を制作しました。
1967(昭和42)年、11代三輪休雪を襲名しました。
1968(昭和43)年、中国文化賞を受賞しました。
1970(昭和45)年、山口県選奨(芸術文化功労)を受賞しました。
1972(昭和47)年、日本工芸会理事に就任しました。
山口県指定無形文化財に認定されました。
1976(昭和51)年、紫綬褒章を受章しました。
1979(昭和54)年、山口県立美術館顧問に就任しました。
1982(昭和57)年、勲四等瑞宝章を受章しました。
1983(昭和58)年、重要無形文化財「萩焼」の保持者(人間国宝)に認定されました。
1990(平成2)年、勲四等旭日小綬章を受章しました。
2002(平成14)年、山口県文化特別功労賞を受賞しました。
2003(平成15)年、長男・龍作に家督を譲って隠居し、「壽雪」と号しました。
萩焼の伝統を受け継ぎながら斬新で卓抜した感覚を駆使し、
因習的な茶陶の世界に新風を齎すものとして、
前例の無い日本伝統工芸史上初の兄弟人間国宝となる快挙を成し遂げました。
日本現代陶芸界の頂点に位置する重鎮で独特の休雪様式を確立して、
その技法・伝統を現代に活かしています。
兄と大成した「休雪白」を始めとし、
休雪碗ともいうべき「鬼萩」、「割高台」は茶陶という概念を超え、
まさに一個のオブジェといえる極致にあります。


12代 三輪休雪(龍氣生) 1940(昭和15)年生

12代三輪休雪(龍氣生)は11代三輪休雪(壽雪)の長男として山口県萩市に生まれました。
本名を龍作、号を休雪・龍氣生といいます。
1959(昭和34)年、画家を志望して絵画制作を始めました。
エドヴァルド・ムンクの絵画、谷崎潤一郎や太宰治の文学に惹かれました。
1967(昭和42)年に東京藝術大学大学院陶芸専攻を修了後、
処女作「花子の優雅な生活(ハイヒール)」を卒業制作しました。
1974(昭和49)年、山口県萩市椿東上野に築窯しました。
山口県芸術文化振興奨励賞を受賞しました。
1977(昭和52)年、萩女子短期大学教授に就任しました。
ファエンツァ国際陶芸展でゴールドメダルを受賞しました。
1979(昭和54)年、国際陶芸アカデミー(I・A・C)会員となりました。
この頃から初期の赤や青等の原色釉を用いたオブジェから脱却していきます。
1980(昭和55)年頃より茶陶制作を開始します。
1981(昭和56)年に個展「初咲展」で茶陶を発表して伝統回帰を示唆しますが、
翌年には一転して個展「黒の風景展」で新境地のオブジェを発表しました。
その後、藁灰釉の白と見島土の黒とのコントラストを基調とした作品が続きますが、
1988(昭和63)年の個展「新愛液展」で生の土による巨大な作品を制作し、
同年の個展「卑弥呼展」では金彩作品を発表しました。
卑弥呼はシリーズ化され、「卑弥呼山」、「卑弥呼の書」と制作し、
このシリーズから作品の大形化が顕著となります。
1989(平成元)年、日本陶磁協会賞を受賞しました。
1992(平成4)年に黒陶による「卑弥呼の書」を発表してこのシリーズに区切りを付けると、
やがて黒陶に色彩を加えた技法「黒陶彩」を発表します。
1993(平成5)年、萩陶芸家協会を設立し、初代会長に就任しました。
1994(平成6)年、山口県選奨(芸術文化功労)を受賞しました。
1999(平成11)年、中国文化賞を受賞しました。
2000(平成12)年、還暦を迎えて白釉による「龍氣盌」と名付けた茶陶を発表しました。
2003(平成15)年、12代三輪休雪を襲名しました。
2007(平成19)年に中国山東省・日本山口県友好関係締結25周年事業として、
山東省博物館で大規模な回顧展が開催されました。
2019(令和元)年、弟・和彦に家督を譲って隠居し、「龍氣生」と号しました。
陶芸の概成概念を打破する確固たる思想と、
天性の豊かな造形力を駆使して鮮烈で刺激的な話題作を次々と発表しました。
最高の美意識への憧れや真実の追求としての「エロス」、
その対極にある「死」は人間にとって切り離す事のできない根源に関わるものであり、
「エロス‐生‐死」という重要な問題に真正面から取り組んでいます。
大胆なエロスの謳歌に始まったその手仕事は次第に生から死への領域へと深化し、
更に宗教的な精神世界への沈潜を示すに至っています。
「卑弥呼シリーズ」においては高いレベルの纏まりを見せており、
茶陶は豪快で重厚感のあるどっしりとした造りで、
茶の湯の常識や類型を超えた機能性にとらわれないオブジェとしての輝きを秘めています。


13代 三輪休雪 1951(昭和26)年生

13代三輪休雪は11代三輪休雪の三男として山口県に生まれました。
本名を和彦といいます。
1975(昭和50)年にアメリカ留学し、
サンフランシスコ・アート・インスティテュートで学びました。
1981(昭和56)年に帰国して三輪窯で個展を中心とする制作活動に入りました。
1990(平成2)年、山口県芸術文化振興奨励賞を受賞しました。
2019(令和元)年、13代三輪休雪を襲名しました。
「白い夢」を中心とした轆轤を使って土を立ち上げていく作品と、
「デッド・エンド」や「夢想の地」のように素材を限界まで問い詰めた作品に大別されます。


三輪栄造 1946(昭和21)年~1999(平成11)年

三輪栄造は11代三輪休雪(壽雪)の次男として山口県萩市に生まれました。
1970(昭和45)年に武蔵野美術大学彫刻科を卒業後、
伯父・三輪休和の養子となりました。
1978(昭和53)年、日本工芸会山口支部展で朝日新聞社賞を受賞しました。
1979(昭和54)年、日本工芸会山口支部展でNHK山口放送局賞を受賞しました。
1980(昭和55)年、日本工芸会山口支部展で支部長奨励賞を受賞しました。
1981(昭和56)年、日本工芸会山口支部展で朝日新聞社奨励賞を受賞しました。
1983(昭和58)年、日本工芸会正会員となりました。
1984(昭和59)年、日本工芸会山口支部展で朝日カルチャーセンター賞を受賞しました。
1985(昭和60)年、日本工芸会山口支部展で支部長賞を受賞しました。
1986(昭和61)年、田部美術館「茶の湯の造形展」で大賞を受賞しました。
1987(昭和62)年、山口県芸術文化振興奨励賞、日本工芸会山口支部展で下関市長賞を受賞しました。
1990(平成2)年、山口県警察本部の陶壁を制作しました。
萩焼の伝統的な茶陶を踏襲する一方で、
卓越した造形力を駆使して新しい萩焼の可能性を追及しました。
「男のネック」、「雪月花」等のシリーズでは自由で幅広い活動を展開しました。

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