Special Preview先行紹介
動物を模った唐三彩の中で最も美しいプロポーションを魅せる馬俑の最上級品です。冴え渡った艶やかな三彩釉(白、緑、褐)、躍動感ある高度な塑像技術は盛唐文化の繁栄を裏付けるかのようです。日本においても馬は「神様の乗り物」とされており、神聖な動物として捉えられてきました。神社等で神様に祈りを捧げる際には、生きた馬を奉納していたのですが、高価な馬に代わって、板に馬の絵を描いて納めるようになりました。これが絵馬の始まりとされています。馬は田畑を耕し、重荷を運び、唯一無二のパートナーとして古くから人々の暮らしを支えました。時には戦場で命を守ってくれ、「勝利」を齎す縁起物としての意味を持つようになり、有利な方に着くという意味の「勝ち馬に乗る」という言葉からも武人が功績を挙げるには必要不可欠で勝敗を左右する特別な存在と考えられてきました。
- 時代
- 唐時代
8世紀
- 重量
- 4,570g
- 径
- 43.0×37.1cm
- 高さ
- 46.0cm
- 次第
- 台
桐箱(張込箱)
- 状態
- 脚、耳、鼻先、杏葉に共直しがあります
三彩の発色、艶を帯びた肌合いも秀抜で、一級品の条件を備えています。
古代中国では死後の世界は現世の延長であると考えられてきました。
秦時代の始皇帝陵を取り巻く等身大の兵馬俑はその代表的な遺例ですが、
その後も規模を変えて縮小しながらも陶製品の墳墓への埋葬は続けられ、
来世でも主人に仕える為に安置されました。
それまでの中国で知られていた背丈が低く、
首や足が短い馬種とは異なり、
現在のサラブレッドのような颯爽たる容姿を反映しています。
「汗血馬」の名称で知られる西方原産の良種血統が生み出した名馬である事が窺えます。
全体に美しい艶を帯びた濃い褐釉が掛けられ、
面繋と障泥と杏葉は目の覚めるような鮮やかな三彩が表現されています。
各釉の接触部分が互いに融合して幻想的な彩色を放ちます。
鞍は無釉で胡粉が施されています。
唐三彩に用いられた色釉は鉛を媒溶料に用い、
銅や鉄を呈色剤としています。
鉛釉は漢時代から存在していましたが、
当時はまだ美しい白色の素地に恵まれませんでした。
白さを増した胎土、白化粧を施した下地技術が開発された事で、
唐三彩の美しさは飛躍的な進歩を遂げます。
馬俑は笵型を組み合わせて造られますが、
複雑かつ入念な制作過程を経なければなりませんので、
非常に高度な技術を要しました。
専門の張込職人さんによって仕上げられた内箱仕様です。
すっきりとした内観で作品の収納がスムーズにできます。
唐三彩
唐三彩とは唐時代に西安(往時の長安)や洛陽近傍の窯を中心に焼成された三彩陶器です。
原則として明器(副葬品)であり、
日常での使用を目的としたものではありませんでした。
王侯貴族の墳墓を華やかに装飾した芸術品であると共に、
異国情緒溢れるシルクロードの東西文化交流を象徴する至宝です。
1905(光緒31)年に開封(汴京)と洛陽を結ぶ汴洛鉄道の敷説工事の最中に大量の三彩が発見され、
それまで殆ど知られていなかった極彩色の明器の発見は世界を驚嘆させました。
欧米の蒐集家間で競うようにして求められ、瞬く間に中国陶磁器を代表する存在となりました。
日本では明器を敬遠する風潮がありましたが、三彩の美しさに魅入られた蒐集家も次第に現れ、
純粋に陶磁器の美を愛でる「鑑賞陶磁」という新しい陶磁器蒐集のスタイルが確立されました。
細川護立(永青文庫)、岩崎小弥太(静嘉堂文庫美術館)、横河民輔(東京国立博物館コレクション)、
出光佐三(出光美術館)は唐三彩を蒐集した中心的人物として知られています。
王侯貴族や高級官僚の本拠地であった陝西省の西安と河南省の洛陽からの出土例が群を抜いて多く、
そこに貿易港であった江蘇省の揚州が続きます。
発掘調査の進展により出土地域は拡大を続けており、
遼寧省、河北省、山西省、山東省、甘粛省、湖北省、安徽省、江西省等にまで広がり、
かなり広範囲の分布に及ぶ事が分かってきました。
可塑性に富んだ軟らかい胎土を成形した後、約1,200℃前後の高温で素焼きします。
冷却後に基礎釉(透明釉)を施し、
緑や褐色の鉛釉を加えて約800~900℃前後で低火度焼成します。
色釉が流れたり滲んだりするのは基礎釉が焼成中に下地熔液となる為であり、
各釉の接触部分は互いに融合して華やかな彩色を放ちます。
基本的には三色(白、緑、褐)ですが、
藍色が加わった「藍彩」や色数を減じた二色も含めて「唐三彩」と総括されています。
自国の「遼三彩」や日本の「奈良三彩」を始めとし、
「新羅三彩」、「渤海三彩」等と周辺諸国の窯業に大きな影響を与えました。