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 天平堂
Satsuba Bottle with Design of Chrysanthemum(Edo-Meiji Period)-y1

薩摩錦手菊文瓢形徳利(幕末~明治初期)

御売却済

美しい瑠璃地に白抜きの技法を駆使し、色釉や金彩で華やかに十六弁の菊御文が彩られています。上から見ても横から見ても菊尽くしです。躍動感ある組紐細工が器形をより立体的に特徴付けています。瓢箪は古来より縁起物とされ、除災招福のお守りや魔除けとして広く用いられてきました。三つ揃って「三拍(瓢)子」、六つ揃って「無病(六瓢)息災」とされ、蔓が伸びて多くの実を付ける事から子孫繁栄という意味もあります。

商品コード
230903-2
時代
幕末~明治初期
19世紀
重量
520g
胴径
10.9cm
口径
1.9cm
高さ
20.0cm
底径
7.0cm
次第
桐箱(張込箱)
状態
完品(無傷)

優美な造形、落ち着きある柔らかな肌合い、鮮やかな色釉と優品の条件を満たしています。

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Video

年表(桃山~江戸時代)


薩摩焼

薩摩焼とは薩摩国鹿児島藩島津家の庇護の下に御用焼として焼成された陶磁器です。
桃山時代における特筆すべき文化の一つは千利休による茶道確立と侘び茶の流行です。
利休門下の茶人として知られる17代当主・島津義弘も自領内での茶陶焼成を試みました。
文禄・慶長の役で朝鮮半島から陶工を召致してきた事が開窯の契機となっています。
薩摩焼諸窯は主に竪野焼、苗代川焼、元立院焼、龍門司焼、平佐焼に大別されています。
「黒薩摩(黒物)」と「白薩摩(白物)」を主体とし、
古帖佐、火計り手、宋胡録手、蛇蝎釉、鮫肌焼、錦手(金襴手)等の多彩な種類が知られています。
18世紀には平佐焼が興り、色絵や染付を中心とした華麗な装飾磁器が展開されました。
豪華絢爛の錦手は竪野系(藩窯)の窯で開発が進められ、19世紀に入って隆盛を極めました。
1855(安政2)年に28代当主・島津斉彬は、
鹿児島市吉野町磯の別邸内に「磯窯(磯御庭焼)」を開窯しました。
斉彬は富国強兵・殖産興業を目的とした集成館事業として、
薩摩焼においても苗代川焼の朴正官を召致して試験改良や開発研究に従事させた結果、
白盛絵具の実用化や金盛技法の確立によって錦手の完成に大きく寄与しました。
1857(安政4)年には薩摩藩営陶磁器製造所の支部が苗代川に設立され、
12代沈壽官が磁器方主取に任命されました。
磯窯は1863(文久3)年の薩英戦争で閉窯しました。
この薩英戦争を機に薩摩国と英国は協定を結びます。
1858(安政5)年に江戸幕府はアメリカとの間に日米修好通商条約を締結し、
次いで、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも修好通商条約を締結しました。
1859(安政6)年に長崎港、函館港(北海道)、横浜港(神奈川県)が開港され、
1868(明治元)年に神戸港(兵庫県)、新潟港が開港されると諸外国との貿易が開始されました。
1867(慶応3)年、鹿児島藩は朴正官の「錦手花瓶」をパリ万国博覧会に出品しました。
更に1873(明治6)年のウィーン万国博覧会に出品された12代沈壽官の錦手が好評を博し、
名声は飛躍して世界を市場にした薩摩焼の大盛況時代を迎えました。
この華麗な装飾陶器は「SATSUMA」の商標で輸出され、欧米諸国で特に愛好されました。
このように好評を博した事から其々の土地でも薩摩風陶器は生産され、
「本薩摩」に対し、「京薩摩」、「大阪薩摩」、「横浜薩摩」、「東京薩摩」等と呼ばれています。
しかし、1897(明治30)年前後から急速に人気を落として衰退の傾向を辿り、
大正年間(1912~26)には欧米諸国の需要を殆ど失いました。
要因は大量生産による粗製乱造であったとされています。
近代、錦手は主な輸出先であった欧米諸国から相次いで里帰りしています。
現在は15代沈壽官を中心とし、その伝統を受け継いでいます。


菊は薬草として奈良時代に中国から伝えられました。
平安時代になると重陽の節句(陰暦9月9日)に、
宮中で菊酒を飲んで長寿を願う「観菊の宴」が催され、
歌会では数々の菊の歌が詠まれます。
能の「菊慈童」は菊の露を飲んで不老不死になったという説話で、
菊水に長寿延命の縁起が込められました。
これが歴代の天皇に喜ばれ、皇室の紋(16の重弁)に取り入れられます。
その美しさを高潔な花として君子に例えた「四君子(菊、蘭、竹、梅)」にも含まれており、
君子とは徳が高くて品位の備わった人物を指します。
又、「五友(菊、蘭、竹、梅、蓮)」、「三香(菊、蘭、水仙)」の一つとしても知られています。
「菊水」は流水に菊花が浮かんでいる様子を描いた日本人好みの意匠で、
南北朝時代の武将・楠木正成の家紋としても名高いです。
高台寺蒔絵を代表する「菊桐」は桐に瑞鳥が集まるという中国の故事に基づきます。