絢爛優美で凛とした佇まいを示す希少性の高い平佐焼です。柔らかな素地に高貴な菊文が細密に彩られ、余白を活かす事による慎ましい品位が感じられます。同様の菊文があしらわれた江戸時代の銀火舎が添っており、生まれの良さが次第からも滲み出ています。
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- 商品コード
- 230403-7
- 時代
- 幕末
19世紀
- 重量
- 133g
- 胴径
- 7.3cm
- 口径
- 4.7cm
- 高さ
- 7.3cm
- 次第
- 銀火舎
桐箱
- 状態
- 完品
洗練された厳しい造形、美しい色絵、優れた状態と一級品の条件を満たしています。
平佐焼
平佐焼とは鹿児島県薩摩川内市天辰町で焼成された磁器です。
1776(安永5)年に今井儀右衛門が阿久根市脇本槝之浦西に脇本窯を開窯しましたが、
2年程で経営困難となり閉窯しました。
後の1786(天明6)年に領主・北郷久陣の庇護の下に伊地知団右衛門が肥前から陶工を召致し、
薩摩川内市天辰に北郷窯を開窯したのが本格的な開始とされています。
この地域は原料となる天草陶石を運搬するにも適した近距離で、
製品の船便にも川内湾に臨む至便の立地条件が整っていました。
18世紀以降に天草陶石が磁器原料として流通すると九州各地に磁器窯が誕生しますが、
薩摩国に磁器窯が設けられた目的は肥前磁器の流入を抑制して産業振興を計る為でした。
平佐焼は天草陶石を用いている為に素地が白く、肥前磁器に類似しています。
1810(文化7)年に薩摩焼最大の窯となる平佐大窯が開窯され、
1846(弘化3)年には色絵窯、
1848(嘉永元)年には新窯が増築されました。
経営は軌道に乗って藩内のみならず、
奄美大島、琉球方面にまで販路を広げて盛況を呈したとされています。
1861(文久元)年に京都の尾張屋常蔵達に呉須の調合法を学び、
1865(慶応元)年に長与焼絵師・青木宗十郎より平佐三彩(鼈甲手)の技法を伝えられる等、
積極的に技術導入を図りました。
1867(慶応3)年にはフランス貿易商・コンド・デ・モンブランの協力を得たとされています。
幕末に海外輸出の道が開かれた事で意欲的に輸出しましたが、
明治初年に輸出用として長崎に輸送した製品の多くが火災焼失して打撃を受け、
1871(明治4)年には廃藩置県によって北郷家の庇護を失いました。
1875(明治8)年には大窯が改築され、
田中、勝目、柚木崎、永井達の個人窯も加わって経営しますが、
肥前磁器が流入するに及んで次第に衰退していきます。
1941(昭和16)年に名工と謳われた向井勘兵衛の死が平佐焼の終焉とされています。