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 天平堂

禅語

Zengo

禅語

禅僧の書(印可状、法語、偈頌、書翰等)を尊重し、
軸物に仕立て座右に掛ける事は中国・宋時代の禅僧社会で既に行われていましたが、
この習俗は禅宗伝来後の間もない鎌倉末期に日本にも伝わってきました。
鎌倉末期から南北朝時代を経て、
室町前期頃にかけて流行した闘茶本位の茶寄合の会所に掛けられた掛物は、
中国から舶載された絵画だったとされています。
次いで室町中期頃に将軍・足利義政達により創始された書院の茶における掛物も、
専ら唐物の絵画だったと推定されています。
墨蹟を茶室の床に掛ける事は、
四畳半の侘び茶を創始した村田珠光に始まるとされています。
初期の茶会ではその家の名物が季節に関係なく毎度使用され、
お客もそれを拝見する事を最大のご馳走として満足していたのですが、
江戸時代に入ると大徳寺派の禅僧が書いた一行物が多く使用されるようになりました。
これらの一行物が比較的廉価で入手し易い事、法語を揮毫した物に比べて読解し易い事、
禅語は季節感に富み茶会の趣向に変化をもたせるのに好都合である事等から、
江戸中期以降に一行物は茶室の掛物として使用されるようになって現在に至っています。
筆者も大徳寺派の禅僧に限らず、各宗各派の僧や茶道諸流の宗匠達にまで拡大しています。
一行物に揮毫される禅語にはその背後に深い禅旨を込めたものが多い事から、
表面の意味を理解するに留めず、
背後の意味を理解するように心がけるべきです。


円相(えんそう)

円相とは悟りの形象として描かれる丸(円形)です。
仏性、実相、真如、法性等という絶対の真理を表しています。
「円窓」と書いて「己の心を映す窓」という意味で用いられる事もあります。


好日(こうにち)

運勢や気候の問題ではなく、吉凶に惑わされる事なく、
日々真実の生き方をすれば毎日がそのまま「好日」です。


瑞雲(ずいうん)

おめでたい事の前兆として現れる雲。祥瑞の雲。


清友(せいゆう)

清らかな友情で結ばれた友です。
梅や茶の別名でもあります。


無事(ぶじ)

変わった事がなく健康である事や平穏である事の感謝や願望を表すだけでなく、
深く尊い囚われのない安らぎの境涯です。


劫外春(ごうがいのはる)

劫といった期間や原理を超越した春のような無碍自在の境地です。


主人公(しゅじんこう)

真実の自己、本来の自己です。
中国の仏教書『無門関』に見られる瑞巌師彦は、
「主人公(心の主)は目を醒ましているか」という肚で日々自らを戒めたといいます。


吹毛剣(すいもうけん)

吹毛剣はその刃に一筋の毛をふっと吹き付けると真っ二つに切れる程の鋭利な名剣です。
「三人寄れば文殊の智慧」というように文殊菩薩は智慧を象徴する菩薩であり、
『般若心経秘鍵』の冒頭に「文殊の利剣は諸戯を絶つ」とあり、
鋭い剣に例えられる文殊菩薩の智慧が煩悩を断ち切ることを示しています。
文殊菩薩の根本である大智慧をこの吹毛剣に例え、
煩悩五欲や相対的な念慮を切断し、
この剣が必要でなくなった時に悟りの境地に達します。
どんな名剣であっても常に磨く事を怠ったならばその切れ味も失ってしまうように、
私達も能力に慢心してしまうと鋭さは鈍って堕落が始まります。
何事においても常に己の心を磨き続ける事が肝心で修行に終わりはありません。


雪月花(せつげっか)

四季の移り変わりの中にある自然美の総称です。
雪月花を美しく感じるところから茶禅一味の風雅の私捨静寂の道が開けます。


東海天(とうかいのてん)

気高い山(富士山)が東海の天空にそびえています。
「東海」とは中国から見た日本を指します。


平常心(びょうじょうしん)

「ああしよう」、「こうしよう」という作為する心や、
「ああすべきでない」、「こうすべきである」等という規範の意識等を、
きれいに忘れ去った何ともいえない素直な心です。


柳緑花紅(やなぎはみどりはなはくれない)

「春になると柳は瑞々しい緑の葉を芽吹かせ、花は美しい真紅の花を咲かせます。
「山高川低」、「桃紅李白」、「松曲竹直」等という大小・長短の違い差別はありますが、
それを超越した平等、無差別の教えです。


和敬清寂(わけいせいじゃく)

和敬清寂とは茶道の精神を表す言葉で、
特に千家では「和」、「敬」、「清」、「寂」を表す四規として重要視しています。
和敬は主客相互の心得、清寂は茶庭・茶室・茶道具等に関する心得で、
主人と客が互いの心を和らげて謹み敬い、
茶室の品々や茶事の雰囲気を清浄な状態に保つ事です。


一華開五葉(いっかごようにひらく)

達磨大師が慧可に印可(悟りの証明)を与えた時の言葉で、
自分の伝える禅の一宗が中国に根を下ろし、
やがて五つの流派(潙仰、臨済、曹洞、雲門、法眼)に分化して、
大いに隆盛する事を予言・祝福したものです。
一つの花が五枚の見事な花弁を開いて立派な実を結ぶように、
私達の心の花が咲いて仏の五つの知恵を開くならば、
菩提という仏果は期せずして結実すると解するものです。
「一つのものが開花して成長発展を遂げていく」という大変おめでたい意味があり、
茶の道にも達したいものです。


閑坐聴松風(かんざしてしょうふうをきく)

閑かに坐って茶釜の鳴り(松風)をゆったりと聴く、
茶禅静寂の境地です。


金毛獅子吼(きんもうししく)

金毛の獅子(獅子の王)とは修行を積んだ優れた高僧の姿を指し、
禅宗では獅子の吼える姿を禅僧の説法になぞらえます。
獅子吼とは獅子が吼えて百獣をひれ伏す事であり、
相手が誰であろうと怯む事なく正しい事を言う仏教修行者の理想姿勢です。
大徳寺の三門「金毛閣」は金毛の獅子から採って千利休が命名し、
「この門を潜る者は金毛の獅子となり下化衆生すべし」といった意味が込められています。
整然かつ丁寧な態度で勇敢に正しい話をする事こそ「獅子吼」となります。


雲深不知処(くもふかくしてところをしらず)

雲は私達の迷いや煩悩妄想を指し、
雲さえ晴れればすぐそこにあるものも雲の為についつい見失ってしまいます。


溪梅一朶香(けいばいいちだかんばし)

谷間の梅の一枝が芳香を放っています。
人が気付かないような所にも、
よく見れば芳しい一枝の梅花が咲いているという、
人生の有り様を溪梅に喩えて示しています。


紅炉一点雪(こうろいってんのゆき)

真紅に燃える炉火に飛び込んできた雪は一瞬にして消え去ります。
人の命のはかなさを喩えています。


壷中日月長(こちゅうじつげつながし)

後漢の費長房は薬売りの老人が店を閉めた後に壷の中に入るのを見て、
一緒に入れてもらったところ、
金殿玉楼が聳えて珍しい樹花がいっぱいに花を咲かせた別天地でした。
費長房は美酒・佳肴の持て成しを受けて現実の世界に戻ってくると、
二、三日滞在したばかりと思っていたのが十数年も経過していたのでした。
禅道(壷中)で悟りの境地に達すれば、うららかな日々で苦悩はありません。


秋山風月清‐しゅうざんふうげつきよし‐

唐時代の詩人・杜甫の詩「笛吹」から取ったものです。
「吹笛秋山風月清 誰家巧作斷腸聲」
‐笛吹き、秋山風月清し、誰が家か、巧みに断腸の声(音)を成す‐
秋の山は風も月も清らかに澄み渡っている。
洒脱で清白な独脱の境涯です。


松樹千年翠(しょうじゅせんねんのみどり)

松の緑色は千年の長い歳月を経ても風雪に耐え抜いて、
少しもその色を変えません。
老松といわれるような松樹は季節の移り変わりの中でも泰然自若に悠然として翠を保ち、
大自然の中での「生」の有様を黙然と厳かに説いています。
桜や紅葉を始めとする四季の変化に比べ、
松は一年中ほぼ同じ見た目で周りの風景に溶け込み、
殆ど目を引く事がありませんが、
目立たない無数の小さな変化を繰り返しながら「千年の翠」を保っています。
変わらないように見えても着実に成長しています。
松が千年の翠を保つが如く、
周囲に左右されない確固たる本来の道を探求し、
信念を持って人生を生き抜きたいものです。


春来草自生(はるきたってくさおのずからしょうず)

自然の運びだけの意味でなく、
茶道においても苦行の後に道を極めた者のみに与えられる喜びの境地です。
そしてそれは差別なく平等に吾人に与えられた道であり喜びです。


福聚海無量(ふくじゅかいむりょう)

『観音経』の中の一節です。
観世音菩薩の功徳は「福を聚めた大きな海のように量に限りがない」という意味で、
徳の積み重ねによって福が海のように広大に集まる事を指します。
長い人生の中で起こる様々な苦悩や困難も全て観世音菩薩の功徳であるといえ、
それらを全て受け止める事で人生の深さを知り成長する事ができます。
「聚」を「寿」とするのは縁起を強調する意図からきています。


山是山水是水(やまはこれやまみずはこれみず)

山は山として存在し、水は水として存在するという事です。
それぞれの個性が調和して、自然はバランスを保っています。
「自分は自分」、「他人は他人」という事を指し、
「人からの評価ばかりを気にせず、自分自身のありのままで良いですよ。」
という意味を含んでいます。


一日清閑一日福(いちじつせいかんいちじつふく)

心静かに過ごせば一日幸福な時が流れる。


春入千林処々花(はるはせんりんにいるしょしょのはな)

春になると至るところで芽を出して花を咲かせます。
大自然の働きに喩えて仏の慈悲がいかに公平無私で広大無辺であるかを示しています。


明歴々露堂々(めいれきれきろどうどう)

歴々と明らかで堂々と露れているという意味で、
寸分も隠す事がなく、全ての物事がはっきり表れているという、
そのままの姿の全てが真理や仏法の表れです。
真理は奥深い所に隠れていて誰もが簡単に見られるものではないと考えられがちですが、
実際はあからさまで隠す所は微塵もありません。
それが見えないとすれば見ようとしないだけか、
目が曇っているだけに過ぎません。