八代焼
Yatsushiro Ware

ホーム > 美術品一覧 > 日本古美術(商品のご案内ページへ)
八代焼
八代焼とは肥後国熊本藩細川家の庇護を受け、御用窯として焼成された陶器です。
別名を高田焼ともいいます。
1632(寛永9)年に2代藩主・細川忠利の入封に伴い、
細川忠興(三斎)に仕えた陶工・尊楷(和名:上野喜蔵)は、
二子の忠兵衛と藤四郎(徳兵衛)を伴って肥後へ移り、
1633(寛永10)年に高田手永奈良木木下谷(現:八代市奈良木町木下谷)に「奈良木窯」を開窯しました。
同地では細川家が入封する以前の加藤家の時代から陶器生産が行われていたとされ、
尊楷はその窯を継承したと考えられています。
奈良木窯では釜ノ口窯(上野焼)に通じる三斎好みの侘びた茶陶が主体を成します。
1645(正保2)年、忠興が逝去すると尊楷は出家して、扶持を返上し、「宗清」と号しました。
1654(承応3)年に尊楷が逝去した後、
1658(万治元)年に忠兵衛と藤四郎は高田手永平山(現:八代市平山新町)に「平山窯」を開窯しました。
奈良木窯の南方約2kmに位置し、窯跡は熊本県史跡に指定されています。
1669(寛文9)年に3代藩主・細川綱利の目に留まったことで、
両名は藩の御用焼物師に任ぜられ、五人扶持を給されました。
こうして八代焼は公的支援を受ける御用窯として確固たる地位を築きます。
以後、藩茶道方の管理下で「木戸上野家」、「中上野家」、「奥上野家」の上野三家が共同制作にあたり、
1767(明和4)年に中上野家、1783(天明3)年には木戸上野家と奥上野家が苗字帯刀を許されました。
八代焼を象徴する象嵌技法は18世紀以降に隆盛し、
初期は牡丹文に代表される面的象嵌や圏線文が主流でしたが、
時代とともに印花や黒象嵌などの表現が多様化し、
江戸後期には絵画的な描線を象嵌で表す洗練された手法や暦手が確立しました。
19世紀には柔らかな白素地に黒象嵌や染付を施した「白高田」をはじめとし、
皿、猪口、鉢などの日用品が大量に焼成されました。
また、中国趣味の流行を背景に、硯屏、陶硯、水滴などの文房具も多く制作されました。
1871(明治4)年の廃藩置県により旧藩制度は消滅し、八代焼を支えてきた保護政策や特権も失われます。
御用職人や上野家は大きな打撃を受け、窯の修復すら困難となり、
1891(明治24)年には長年の地を離れざるを得ませんでした。
1892(明治25)年、木戸上野家は平山窯から南方の八代市日奈久へ移って再興を図ります。
中上野家と奥上野家は明治末年に廃業しましたが、
嫡流の木戸上野家は日奈久にて、今日まで伝統を継承し続けています。
