坂高麗左衛門
Koraizaemon Saka
坂高麗左衛門
坂家は松本御用窯(松本萩)の伝統ある萩焼宗家です。
1765(明和2)年に5代坂助八がそれまでの自家について記述した『略系並伝書』によれば、
当初は「坂本」と名乗っていましたが、後に「坂」と改めた事が記されています。
松本御用窯は文禄・慶長の役の際に召致されてきた渡来陶工・李勺光(兄)と李敬(弟)が、
萩藩初代藩主・毛利輝元の命で松本村中ノ倉に開窯した事に始まります。
1625(寛永2)年に李敬は2代藩主・毛利秀就より「高麗左衛門」の名前を賜りましたが、
通称として「助八」を名乗りました。
初代以後も2代・5代・7代は「助八」、3代・4代・6代・8代は「新兵衛」と、
助八か新兵衛の何れかを名乗りながら明治に至ります。
2代~8代までは「高麗左衛門」を使用せず、明治に入って9代以降が使用しています。
初代 坂高麗左衛門(李敬) 1568(永禄11)年~1643(寛永20)年
2代 坂助八(忠李) 1615(元和元)年~1668(寛文8)年
3代 坂新兵衛(忠順) 1648(慶安元)年~1729(享保14)年
4代 坂新兵衛(忠方) 1683(天和3)年~1748(寛延元)年
5代 坂助八(忠達) 1722(享保7)年~1769(明和6)年
6代 坂新兵衛(忠清) 1739(元文4)年~1803(享和3)年
7代 坂助八(忠之) 1774(安永3)年~1824(文政7)年
8代 坂新兵衛(忠陶) 1796(寛政8)年~1877(明治10)年
8代坂新兵衛は本名を忠陶、通称を新兵衛、号を翫土斎・松翁といいます。
文化・文政年間(1804~30)には磁器窯が多く興りますが、
三輪家と共に御用窯としての衿持を保ちました。
1826(文政9)年、藩主より大坂出仕を命じられ、京都の有栖川宮の御前で陶技を披露します。
又、有栖川宮家所蔵の名器を調査して写しを造りました。
幕末から明治への激動期を乗り切り、
萩焼復興に貢献した名工として名高いです。
9代 坂高麗左衛門 1849(嘉永2)年~1921(大正10)年
9代坂高麗左衛門は8代坂高麗左衛門の孫として生まれました。
本名を道輔、号を韓峯・韓岳といいます。
1877(明治10)年、9代坂高麗左衛門を襲名しました。
1915(大正4)年、大正天皇御大典記念京都博覧会の出品作品が宮内省に買い上げられました。
松下村塾の幼年組の一人として、吉田松陰が江戸へ護送される直前に薫陶を受けました。
青年期は明治維新の変革の中に過ごしました。
萩藩御用窯の坂家も廃藩置県により藩からの援助がなくなって独立自営を強いられますが、
御用窯廃止という危機を乗り切り、
各地の内国博覧会に出品して名声を高めていきました。
技術、学識を兼ね備えた温厚な人物であったとされ、
近代萩焼を代表する名工として名高いです。
作品には陶印が入った物もありますが、入っていない物が多いです。
10代 坂高麗左衛門 1890(明治23)年~1958(昭和33)年
10代坂高麗左衛門は9代坂高麗左衛門の次男として山口県萩市に生まれました。
本名を秀輔、号を韓峯といいます。
1909(明治42)年に山口県立萩中学校を中退し、父に師事して作陶に従事しました。
1914(大正3)年、大正博覧会に出品した「ガマ仙人置物」が宮内省に買い上げられました。
1915(大正4)年、大正天皇御即位奉祝品として萩町献上の「花瓶一対」を制作しました。
大正天皇御大典記念京都博覧会に出品した「菓子鉢」が宮内省に買い上げられました。
1916(大正5)年、「福禄寿置物」が宮内省に買い上げられました。
1920(大正9)年、李王世子殿下御婚儀奉祝品に山口県献上の「高砂尉」と「姥置物」を制作しました。
1921(大正10)年、10代坂高麗左衛門を襲名しました。
1922(大正11)年、皇太后陛下が香椎御参宮の際に「置物」が買い上げられました。
平和記念東京博覧会に出品した「水指」が宮内省に買い上げられました。
1924(大正13)年、今上天皇御成婚奉祝品として萩町献上の「高砂尉」と「姥置物」を制作しました。
北白川宮大妃殿下が萩町行啓の際に「番茶器」と「湯沸」と「水注」を買い上げられました。
1925(大正14)年、秩父宮殿下が山口県行啓の際に萩町献上の「抹茶碗一対」を制作しました。
万国装飾美術工芸パリ博覧会で銀牌を受賞しました。
伏見宮博義王殿下が萩港入港御上陸の際に萩町献上の「花瓶」を制作しました。
1926(大正15)年、摂政宮殿下が萩町行啓の際に萩町献上の「大花瓶」を制作しました。
聖徳太子展覧会委員を委嘱され、総裁久邇宮より「香合」を授かりました。
1928(昭和3)年、天皇陛下御即位御大典奉祝として個人献上を許されました。
1931(昭和6)年、梨本宮殿下が山口県行啓の際に武徳会山口支部献上の「大花瓶」を制作しました。
1938(昭和13)年に竹田宮大妃殿下が山口陸軍病院戦傷病将士御見舞の際に、
山口県献上の「大花瓶」を制作しました。
1939(昭和14)年、朝香宮殿下が県下軍需工場巡視の際に山口県献上の「大花瓶」を制作しました。
1943(昭和18)年、工芸技術保存資格者として選定されました。
1946(昭和21)年、高松宮殿下が萩市行啓の際に萩市献上の「抹茶碗」を制作しました。
1947(昭和22)年、天皇陛下が山口県行啓の際に山口県献上の「天人風炉」と「富士釜」を制作しました。
江戸時代からの萩焼宗家という厳しい鍛錬の中で名実共に重みある伝統を継承しました。
誰に対しても分け隔てなく接した人柄の良さは皆からこよなく慕われました。
11代 坂高麗左衛門 1912(明治45)年~1981(昭和56)年
11代坂高麗左衛門は林利作の三男として山口県に生まれました。
本名を信夫、号を韓峯といいます。
1941(昭和16)年に帝国美術学校(現:武蔵野美術大学)を卒業後、
山口県立大津中学校に美術教師として勤務しました。
1948(昭和23)年、10代坂高麗左衛門の次女と結婚し、江戸時代からの萩焼宗家に入ります。
山口県立大津高等学校の退職後は義父に師事して作陶の道に進みました。
1951(昭和26)年、陶工技能者養成資格者免許を取得しました。
1956(昭和31)年、千家同門会山口県支部理事に就任しました。
山口県美術展で知事賞を受賞しました。
1958(昭和33)年、11代坂高麗左衛門を襲名しました。
1960(昭和35)年、義宮様御成婚の奉祝品として花瓶献上を聴許されました。
1965(昭和40)年、萩市文化財審議会委員、萩市観光審議会委員に委嘱されました。
1967(昭和42)年、第一回杉道助文化奨励賞を受賞しました。
1968(昭和43)年、一水会展で受賞し、一水会正会員となりました。
1969(昭和44)年、山口県美術展審査員に委嘱されました。
1970(昭和45)年、奈良東大寺の晋山式の際に「抹茶碗400個」を献納しました。
1971(昭和46)年、日本工芸会正会員となりました。
1973(昭和48)年、福岡県美術展審査員に委嘱されました。
山口県芸術文化振興奨励賞を受賞しました。
1974(昭和49)年、松陰神社総代会会長、萩市商業活動調整協議会会長に就任しました。
福岡県美術展審査員に委嘱されました。
1975(昭和50)年、山口県指定無形文化財に認定されました。
萩ロータリークラブ会長に就任しました。
山口県選奨(芸術文化功労)を受賞しました。
元々は洋画家で旧制中学、新制高校で教鞭を執った美術教師として奉職していました。
他家から格式ある萩焼宗家を襲名した重い伝統に対する創作哲学には、
血脈によって家業を継承する他の伝統窯の当主達とは違った厳しさと責任があり、
因習に止まらない伝統に新風を吹き込んだ独自の作風を展開しました。
井戸茶碗には特に力を入れた事で知られています。
12代 坂高麗左衛門 1949(昭和24)年~2004(平成16)年
12代坂高麗左衛門は山中關の長男として東京都に生まれました。
本名を達雄、号を熊峰といいます。
1978(昭和53)年、東京芸術大学大学院日本画専攻を修了しました。
1982(昭和57)年、11代坂高麗左衛門の長女と結婚し、江戸時代からの萩焼宗家に入ります。
1983(昭和58)年に京都市工業試験場の研修を修了し、
1984(昭和59)年より萩で作陶活動を開始します。
1988(昭和63)年、12代坂高麗左衛門を襲名しました。
1994(平成6)年、日本工芸会正会員となりました。
11代に続いて12代も婿養子として萩焼宗家の伝統ある坂家に入り、
伝統を受け継ぐと共に新風を吹き込みました。
日本画を基礎とし、萩焼に上絵付けを施した独自の作風を展開しました。
13代 坂高麗左衛門 1952(昭和27)年~2014(平成26)年
13代坂高麗左衛門は11代坂高麗左衛門の四女として生まれました。
本名を純子といいます。
2011(平成23)年、13代坂高麗左衛門を襲名しました。