LOADING

 天平堂

樂吉左衛門

Kichizaemon Raku

樂吉左衛門

樂吉左衛門は千家の正統的な茶道具を制作する千家十職の一家(茶碗師)です。
樂家は「田中」姓でしたが、
正式に「樂」姓を名乗るようになるのは明治時代からです。
江戸時代には「樂」姓も「田中」姓も使用しており、
9代樂吉左衛門(了入)の時代には箱書署名は全て「樂」姓に統一されています。
当時、長次郎が造った茶碗にはまだ「樂茶碗」という名称はなく、
「今焼茶碗」と呼ばれていました。
「樂」という名称の始まりは、
長次郎が秀吉より聚楽第の一字にも含まれる「樂」字を拝領した事によると伝えられます。
現在の樂家の窯は天明の大火(団栗焼け)後に築窯されたものです。
表玄関の暖簾「樂焼 御ちやわん屋」は本阿弥光悦の筆と伝えられており、
歴代当主が襲名の際に樂家に残されている字型を基に新調します。
茶室、窯場を含む家屋全体は国の登録文化財に指定されています。
樂焼のルーツは中国・明時代の「華南三彩(素三彩)」である事が判明しており、
交趾焼もその範疇に含まれています。
「一樂、二萩、三唐津」と謳われるように茶陶の分野において最高の評価を受けています。


元祖 あめや 生没年不詳

あめや(飴屋、飴也、阿米也)は長次郎の父と伝えられており、
初代に先立つ樂焼元祖と位置付けされています。
江戸時代より朝鮮人、中国人の両説がありますが、
長次郎の陶法から推して中国渡来の陶工と考えられています。


家祖 田中宗慶 1535(天文4)年~没年不詳

田中宗慶は長次郎の妻の祖父です。
千利休、大徳寺111世春屋宗園、長谷川等伯達とも親交がありました。
豊臣秀吉より金印「樂」と「天下一焼物師」の称号を拝領しました。


田中宗味 生没年不詳

田中宗味は田中宗慶の子で2代樂吉左衛門(常慶)とは兄弟です。
名を庄左衛門、号を宗味といいます。
娘は長次郎の妻です。
宗味直系の一族が歴史の表舞台から姿を消していき、
旧体制・豊臣政権から縁の薄い人物となる常慶が樂家を取りまとめていく背景には、
千家と同様の意図であったとも推測されています。


初代 長次郎 生年不詳~1589(天正17)年

初代長次郎はあめやの子と伝えられます。
名を長次郎、号を長祐、法号を最勝院長祐日元といいます。
千利休の創意を受けて「樂茶碗」を創案し、
造形の根底には侘茶好みの思想が濃厚に反映されています。
長次郎が樂茶碗を造り始めた時期についての確かな事は分かりませんが、
赤茶碗と同質の獅子(樂美術館蔵)に「天正二年春 長次良寵命 造之」の彫名がある事から、
赤樂の技法は既に1574(天正2)年頃には行われていた事が確認できます。
この獅子像は屋根の装飾瓦として制作された物とも考えられています。
初期の樂窯は長次郎を中心に田中宗慶、田中宗味、2代樂吉左衛門(常慶)という一族で、
営まれていたとされています。
長次郎の残した作品は茶碗が大半を占めており、
茶入や香炉等は僅かに数点あるのみです。
獅子像を除いて作品に印はなく、
田中宗慶や常慶の頃から見られ始めます。


2代 樂吉左衛門(常慶) 生年不詳~1635(寛永12)年

2代樂吉左衛門は田中宗慶の次男で田中宗味とは兄弟です。
名を与次(後に吉左衛門・常慶)といいます。
慶長期に流行した織部好みの沓茶碗や土見せ高台等の新しい作行も積極的に取り入れ、
赤黒の二釉に加えて白釉「香炉釉」を創案しました。
本阿弥光悦とも親交が深く、
自筆の暖簾「樂焼 御ちやわん屋」を賜りました。
会津藩に御預けの身となっていた千少庵を迎えに出向くという大役も務めました。
常慶より代々「吉左衛門」を名乗るようになりました。
徳川家2代将軍・徳川秀忠より拝領した「樂印」を用いたとされています。


3代 樂吉左衛門(道入) 1599(慶長4)年~1656(明暦2)年

3代樂吉左衛門は2代樂吉左衛門(常慶)の長男として生まれました。
名を吉兵衛(後に吉左衛門)、通称をノンコウ、号を道入といいます。
歴代随一の名工とされており、
幕釉、飴釉、白鼈甲釉、蛇蝎釉、砂釉、朱釉等の変化に富んだ釉技を創出しました。
艶やかな光沢を放つ黒釉を区切って黄釉で抽象的な文様を描く等、
長次郎が否定した装飾への道を切り開いたといえます。
本阿弥光悦とも親交が深く、
光悦の黒茶碗の殆どはノンコウの釉薬や窯によって焼成されたと伝えられています。
ノンコウ以降の当主は隠居した際に代々「入」を含む号への改号が習わしとなっています。
大小二つの樂印があり、「樂」字の中央が「白」でなく「自」となっているのが特徴で、
「自樂印」と称されています。
「自」の左側の「幺」は「ノム」になっています。
「ノンコウ」とは千宗旦が道入に贈った竹花入の銘「のんかう」が由来となっています。


4代 樂吉左衛門(一入) 1640(寛永17)年~1696(元禄9)年

4代樂吉左衛門は3代樂吉左衛門(道入)の長男として京都に生まれました。
名を佐兵衛(後に吉兵衛・吉左衛門)、号を一入といいます。
当初はノンコウの影響を受けた独創的な作風を見せますが、
やがて長次郎茶碗の趣を汲んだ瀟洒で穏やかな作風へと変化していきます。
釉技においては黒釉に朱色の釉薬が混ざり合う鮮やかな「朱釉」を完成させました。
胎土は赤土が殆どで希に「備前土」と呼ばれる鉄分の多い黒褐色の土が用いられています。
庶子・一元は樂脇窯「玉水焼」を創始しました。
妻の妙入も陶技を嗜んで「尼焼」と称し、紀州徳川家に献上しています。
尾形光琳、乾山の叔父にあたる尾形三右衛門の息子・平四郎を養子としました。
1691(元禄4)年、宗入に家督を譲って隠居し、「一入」と号しました。
樂印は「白」の両側の「幺」が「ノム」になっています。
一入の茶碗には共箱も確認されており、
自らの箱書は一入に始まると伝えられます。


5代 樂吉左衛門(宗入) 1664(寛文4)年~1716(享保元)年

5代樂吉左衛門は雁金屋・尾形三右衛門の子で4代樂吉左衛門(一入)の養子となりました。
尾形光琳、乾山とは従兄弟です。
名を平四郎(後に惣吉・吉左衛門)、号を宗入・麁閑亭といいます。
1688(元禄元)年、樂家系図をまとめた重要な資料文書を残しました。
1691(元禄4)年、5代樂吉左衛門を襲名しました。
1708(宝永5)年、左入に家督を譲って隠居し、「宗入」と号しました。
表千家6代覚々斎宗左より5代随流斎宗佐の「宗」字を授かった事に由来します。
又、覚々斎より「麁閑亭」の号を授かり、
現在の樂家茶室には扁額が今も掛かっています。
1713(正徳3)年に知命(50歳)の祝いとして覚々斎の引き立てで造った「宗入二百茶碗」は、
長崎在住の覚々斎門人や数寄者に配られた著名な黒茶碗で、
千家における数茶碗の最も初期とされています。
箱は全て「癸巳」と年号が入り、覚々斎の筆によります。
宗入が活躍した時代は町人文化が隆盛を極めた元禄年間(1688~1704)を中心としており、
茶の湯も一般庶民の間に広がり始めた時期でした。
利休没後100年を経て、
当時の茶風は利休への憧れと共に侘茶への回帰が見られ、
宗入は利休茶碗すなわち長次郎の作風に深く傾倒しました。
錆びた鉄肌を思わせる「カセ釉」を創案し、
ノンコウにおいて得た滑らかな黒釉は再び光沢を失います。
モダンな装飾は消し去られ、茶碗の寸法も小さくなり、
長次郎を一直線に目指した重厚な存在感が感じられます。
樂印は「くずれ印」と称されて字体がはっきりとしません。


6代 樂吉左衛門(左入) 1685(貞享2)年~1739(元文4)年

6代樂吉左衛門は大和屋嘉兵衛の次男で5代樂吉左衛門(宗入)の婿養子となりました。
名を惣吉(後に吉左衛門)、号を左入、諱を嘉顕といいます。
1708(宝永5)年、6代樂吉左衛門を襲名しました。
1728(享保13)年、長男・長入に家督を譲って隠居し、「左入」と号しました。
表千家6代覚々斎宗左より「左」字を授かった事に由来します。
1733(享保18)年に表千家7代如心斎宗左の引き立てで造られた、
「左入二百」と呼ばれる赤黒茶碗を合わせた200碗の連作は、
表千家社中に配られた代表作で左入の造形追求の成果を見る事ができます。
如心斎が作行に合わせて銘を付けている事から茶人間で重宝されています。
樂焼、光悦、瀬戸黒の名碗から多くを習得し、
それまでの樂家にはない新しく自由な表現を生み出しました。
長次郎、ノンコウ、光悦写しに優れた茶碗が知られており、
如心斎から皆伝を許可されました。
妻・妙修も陶技を嗜んで「妙修焼」と称し、紀州徳川家に献上しています。


7代 樂吉左衛門(長入) 1714(正徳4)年~1770(明和7)年

7代樂吉左衛門は6代樂吉左衛門(左入)の長男として京都に生まれました。
名を惣吉(後に吉左衛門)、号を長入・槌斎、諱を栄清といいます。
1728(享保13)年、7代樂吉左衛門を襲名しました。
1738(元文3)年、長次郎百五十回忌に赤茶碗を150碗制作しました。
1762(宝暦12)年、得入に家督を譲って隠居し、「長入」と号しました。
長次郎の「長」に由来します。
樂茶碗の伝統様式の定着、やや形式化された造形への傾向が見られ、
口縁に山のような起伏が付けられたのもこの頃であり、
後に「五岳」と呼ばれる形式性へと発展する契機を生みました。
長入茶碗の魅力はこうした形式化の造形にあるのではなく、
大振りでやや厚造りの豊かな量感を感じさせる作行にあり、
江戸中期の安定した社会風潮と自身の泰然自若とした人柄の反映といえます。
大小の茶碗を重ねた正月用の嶋台茶碗も長入から始まりました。
樂家の中でも作陶生活は特に長く、
樂家仏壇に祭られている日蓮上人像や種々の香合等の立体的な造形に秀でた才が窺え、
細工物に関しては歴代随一とされています。
妻・妙茂も陶技に優れました。
長男・得入は体が病弱だった為、隠居後も作陶を支えました。


8代 樂吉左衛門(得入) 1745(延享2)年~1774(安永3)年

8代樂吉左衛門は7代樂吉左衛門(長入)の長男として京都に生まれました。
名を惣吉(後に吉左衛門・佐兵衛)、諱を喜制、法号を長好、諡号を得入といいます。
1762(宝暦12)年、8代樂吉左衛門を襲名しました。
体が病弱であった事から父の助けを受けて作陶を行った為、
長入の作風が強く窺われる物が多いです。
1770(明和7)年、長入の逝去に際して弟・了入に家督を譲って隠居し、「佐兵衛」と名乗りました。
1798(寛政10)年、二十五回忌の際に「賢義院得入日普居士」の法名が贈られました。
若くして病死した為、歴代の中でも最も作品が少ないです。
黒茶碗に玉を三つ彫って金彩を施した「玉の絵黒茶碗」は有名で、
「得入の得(徳)玉」と縁起を担いで珍重されています。
蒲柳の質で妻を迎えませんでした。
樂印は「白」の中の一が点になっています。


9代 樂吉左衛門(了入) 1756(宝暦6)年~1834(天保5)年

9代樂吉左衛門は7代樂吉左衛門(長入)の次男として京都に生まれました。
名を惣次郎(後に吉左衛門)、諱を喜全、号を秀人(後に雪馬)・了入・翫土軒といいます。
兄・得入が病弱であった為、
15歳の1770(明和7)年に9代樂吉左衛門を襲名しました。
安永年間(1772~81)に赤黒茶碗を200碗制作しました。
1788(天明8)年に「天明の大火」に遭って多くを失いますが、
表千家8代啐啄斎宗左を始めとする千家の力添えもあり、
樂家を再建して旺盛な作陶生活を営み、
後に「樂家中興の祖」と仰がれています。
1789(寛政元)年、長次郎二百回忌に赤茶碗を200碗制作しました。
この時に使用した印は「寛政判」、「茶の子判」と称されています。
1811(文化8)年、次男・旦入に家督を譲って隠居し、「了入」と号しました。
表千家9代了々斎宗左より「了」字を授かった事に由来します。
1818(文政元)年に赤黒茶碗を50碗制作し、
了々斎より「翫土軒」の額を授かって号としました。
1819(文政2)年、旦入と紀州徳川家御庭焼に従事しました。
1825(文政8)年、近江国石山に隠居しました。
古希を記念して赤黒茶碗を70碗制作しました。
箆削りを作陶の中心と据えて求めた中に、
精神的な心の自在性や境地へと高まる内面的な試みが垣間見え、
了入茶碗に刻まれた箆は葛藤の痕跡といえます。
妻の妙詠も陶技を嗜んで「尼焼」の茶碗や香合を紀州徳川家に献上しています。

了入の作陶期は大きく三期に分類されます。
一期は襲名した1770(明和7)年から1788(天明8)年の天明の大火までを「焼け前」といい、
樂印「火前印」は「樂」字の中央が「自」となって横棒が右下がりです。
二期は天明の大火(団栗焼け)後の1788(天明8)年から1811(文化8)年に隠居するまでで、
歴代から伝わった陶土や印を消失した為に「中印」と称される樂印を用いており、
新しい陶土で作行にも大胆な箆削りを見せる意欲的な作風が現れました。
三期は隠居した1811(文化8)年以降で最も作品が充実しています。
歳を重ねて到達した境地ともいえる技巧を脱した自由闊達な魅力に溢れており、
「草樂印(草書印)」を用いました。
他に「翫土老人印」も知られています。


10代 樂吉左衛門(旦入) 1795(寛政7)年~1854(安政元)年

10代樂吉左衛門は9代樂吉左衛門(了入)の次男として京都に生まれました。
名を市三郎(後に惣治郎・吉左衛門)、諱を喜愷、号を秀人・旦入といいます。
1811(文化8)年、10代樂吉左衛門を襲名しました。
1819(文政2)年に紀州徳川家10代藩主・徳川治宝が御庭焼(偕楽園窯)を創設した為、
表千家9代了々斎宗左や父に同候して従事しました。
その後もしばしば紀州家を訪れて、
1826(文政9)年には治宝候の筆による隷書「樂」を拝領し、
大小二つの「拝領印」としました。
1834(天保5)年に紀州徳川家11代藩主・徳川斉順が湊御殿御庭焼(清寧軒窯)を創設した際、
製陶に従事して「清寧印」を用いました。
1838(天保9)年の長次郎二百五十回忌に黒茶碗を250碗制作し、
表千家10代吸江斎宗左から授かった「行書印」を用いました。
1845(弘化2)年、慶入に家督を譲って隠居し、「旦入」と号しました。
吸江斎より「宗旦」の「旦」字を授かった事に由来します。
旦入の箆削りは間合いの良い洒脱な趣があり、
樂茶碗における箆削りは旦入によって完成されたといえます。
襲名後は小沼日向守の筆といわれる下部が正しい「木」の「木楽印」をよく用い、
隠居後は大徳寺447世拙叟宗益による「隠居印」が用いられています。


11代 樂吉左衛門(慶入) 1817(文化14)年~1902(明治35)年

11代樂吉左衛門は丹波国の酒造家・小川直八の三男で、
10代樂吉左衛門(旦入)の婿養子となりました。
名を惣吉(後に吉左衛門)、諱を喜貫、号を雲亭・慶入といいます。
1845(弘化2)年、11代樂吉左衛門を襲名しました。
1854(嘉永7)年の御所炎上で類焼しますが、
1857(安政4)年に樂家を新築しました。
1856(安政3)年、西本願寺御庭焼(露山窯)に従事しました。
西本願寺21世明如光尊より「雲亭」の号と「雲亭印」を授かりました。
1871(明治4)年、弘入に家督を譲って隠居し、「慶入」と号しました。
「積善家余慶有」に由来します。
1884(明治17)年の常慶二百五十回忌では、
表千家11代碌々斎宗左の筆による桐ノ絵菓子皿に「天下一印」が用いられています。
1890(明治23)年、長次郎三百回忌の茶会を営みました。
幕末から明治の変動期は茶の湯を始めとする伝統文化にとって不遇な時代でしたが、
碌々斎から皆伝を許可され、
意欲的な制作を行って家業維持に貢献しました。
慶入の作陶期は大きく三期に分類されます。
一期(前印)は襲名した1845(弘化2)年から1854(嘉永7)年の御所炎上までの間で、
大徳寺435世大綱宗彦の筆による樂印「大綱印(蜘蛛巣印)」が用いられています。
二期(中印)は樂家類焼後の1854(嘉永7)年から1871(明治4)年に隠居するまでの間で、
中国書家・董其昌の法帖から選ばれた樂印「董其昌印」、
西本願寺御庭焼(露山窯)で従事した作品には「露亭印」が用いられています。
三期(隠居印)は隠居した1871(明治4)年以降で「白樂印」が用いられています。
他に紀州徳川家御庭焼で用いた「紀州印」も知られています。


12代 樂吉左衛門(弘入) 1857(安政4)年~1932(昭和7)年

12代樂吉左衛門は11代樂吉左衛門(慶入)の長男として京都に生まれました。
名を小三郎(後に惣治郎・吉左衛門)、諱を喜長、号を翫土軒・雪馬・弘入といいます。
1871(明治4)年、12代樂吉左衛門を襲名しました。
1890(明治23)年、長次郎三百回忌に赤茶碗を300碗制作しました。
この時に使用した印は表千家11代碌々斎宗左の筆による「草樂印」です。
1919(大正8)年、長男・惺入に家督を譲って滋賀県石山の別邸に隠居し、「弘入」と号しました。
苦難の茶道衰退期を慶入と共に乗り越えて家業維持に貢献しました。
9代樂吉左衛門(了入)の特色であった箆による造形を継承していますが、
温和な性格を反映し、丸みを帯びた優しい作例が多いです。
赤樂釉の色調は変化に富み、窯変や火替わりによる明暗の変化が美しいです。
襲名した1871(明治4)年から1919(大正8)年に隠居するまでは石山丈山の筆による「八樂印」、
隠居した1919(大正8)年以降は紀州徳川家15代徳川頼倫の筆による「樂印」を用い、
「湖南作」、「於石山閑居」等と箱書された物もあります。
「十二代喜長角印」、伏見宮貞愛親王の筆による「拝領印」、
西本願寺御用の「澆花印」も知られています。


13代 樂吉左衛門(惺入) 1887(明治20)年~1944(昭和19)年

13代樂吉左衛門は12代樂吉左衛門(弘入)の長男として京都に生まれました。
名を惣吉(後に吉左衛門)、諱を喜英、号を翫土軒・雙橘、諡号を惺入といいます。
1919(大正8)年、13代樂吉左衛門を襲名しました。
1935(昭和10)年から1942(昭和17)年まで茶道研究小誌『茶道せゝらぎ』を発刊し、
茶道文化の研究と啓蒙にも尽力しました。
1941(昭和16)年、長次郎三百五十回忌を営みました。
「惺入」の号は表千家12代惺斎宗左の「惺」字を授かり、
表千家13代即中斎宗左より諡号されました。
様々な鉱石を用いた新しい釉薬の研究にも熱心で樂焼の伝統を今日に伝えた功績は多大です。
樂印は「白」の右側の「幺」が右側の「彡」になっています。
角印「十三代喜英」も知られています。


14代 樂吉左衛門(覚入) 1918(大正7)年~1980(昭和55)年

14代樂吉左衛門は13代樂吉左衛門(惺入)の長男として京都に生まれました。
名を喜慶(後に吉左衛門)、諡号を覚入といいます。
1940(昭和15)年、東京美術学校(現:東京芸術大学)彫刻科塑造部を卒業しました。
1946(昭和21)年、14代樂吉左衛門を襲名しました。
1959(昭和34)年に高松宮妃殿下の筆による「樂」字を拝領し、
大小二つの樂印としました。
1976(昭和51)年、無形文化財保持者に認定されました。
1978(昭和53)年、「財団法人樂美術館」を設立しました。
現代性に溢れるモダンな作品を造り、
樂焼の研究や鑑識に多大な業績を残しました。
没後に表千家より「覚入」の号を諡号されました。
自筆草書の「樂印」、角印「十四代喜慶」を用いました。


15代 樂吉左衛門(直入) 1949(昭和24)年生

15代樂吉左衛門は14代樂吉左衛門(覚入)の長男として京都に生まれました。
名を光博(後に吉左衛門)、号を直入といいます。
1973(昭和48)年、東京芸術大学彫刻科を卒業後、イタリアに留学しました。
1981(昭和56)年、15代樂吉左衛門を襲名しました。
1987(昭和62)年、日本陶磁協会賞を受賞しました。
1988(昭和63)年、長次郎四百回忌を営みました。
1991(平成3)年、京都美術文化賞を受賞しました。
1992(平成4)年、日本陶磁協会賞金賞を受賞しました。
1993(平成5)年、MOA岡田茂吉優秀賞を受賞しました。
1997(平成9)年、織部賞を受賞しました。
1998(平成10)年、毎日芸術賞を受賞しました。
2000(平成12)年、フランス政府より芸術文化勲章・シュヴァリエを受章しました。
2001(平成13)年、京都府文化賞功労賞を受賞しました。
2006(平成18)年、MOA岡田茂吉大賞を受賞しました。
2007(平成19)年、京都市文化功労賞を受賞しました。
滋賀県守山市の佐川美術館に「樂吉左衛門館」が新設されました。
京都市文化功労者として顕彰を受けました。
2019(令和元)年、長男・篤人に家督を譲って隠居し、「直入」と号しました。
海外でも優れた活動が注目されており、
伝統の中に現代性を付与した作風は現代における樂焼を掲示しています。
「焼貫」の技法を駆使した大胆な箆削りによる前衛的な作風を確立しています。


16代 樂吉左衛門 1981(昭和56)年生

16代樂吉左衛門は15代樂吉左衛門(直入)の長男として京都に生まれました。
本名を篤人といいます。
2011(平成23)年、父に師事して作陶に入ります。
2019(令和元)年、16代樂吉左衛門を襲名しました。

樂吉左衛門の作品の販売・買取しています

福岡市博多区に実店舗を構え、樂吉左衛門の作品の販売と買取を行っております。
長年培ってきたキャリアと豊富な取引経験を活かし、
お客様目線に立った最善のご提案をお約束させて頂きます。
ご満足頂けます事を第一として、
最後まで誠心誠意、責任を持って承らせて頂きます。