白隠慧鶴
Hakuin Ekaku
白隠慧鶴 1685(貞享2)年~1768(明和5)年
白隠慧鶴は長沢家の三男として駿河国駿東郡原(現:静岡県沼津市原)に生まれました。
幼名を岩次郎、法諱を慧鶴、道号を白隠、号を鵠林・闡提窟・沙羅樹下老人、
勅諡号を神機独妙禅師・正宗国師といいます。
幼少は日蓮宗の熱心な信者であった母親に連れられて、
よく近所のお寺に説法を聞きに行きました。
15歳になると松蔭寺に預けられ、
「慧鶴」という僧名を授かって修行に励みました。
1708(宝永5)年に信濃(現:長野県)の道鏡慧端(正受老人)を訪ねて参じ、
厳しい修行の下で慧鶴は本当の悟りに達しました。
諸国行脚の後に33歳で郷里の松蔭寺に戻って住持となり、
1718(享保3)年に「白隠」と号しました。
50代以降は各地で講義を行うと共に膨大な著作を残しており、
終生を通して様々な方法で法を説きました。
本格的に禅の教えを表現した書画を手掛けたのは還暦を過ぎてからとされており、
技巧を超越した融通無碍な境地を示しています。
臨済宗の革新と復興を成し遂げて500年に1人と云われる程の高僧となり、
「臨済宗中興の祖」と仰がれました。
後に「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われ、
その功績を富士山にも匹敵すると称えられています。