永樂善五郎
Zengoro Eiraku
永樂善五郎
永樂家は千家の正統的な茶道具を制作する千家十職の一家(土風炉・焼物師)です。
土風炉師・西村善五郎を名乗って代々に亘り業を継承してきましたが、
1871(明治4)年に「西村」姓から「永樂」姓に改姓しました。
初代 西村善五郎(宗禅) 生年不詳~1558(永禄元)年
初代西村善五郎は通称を善五郎、号を宗禅・宗印・宗義・寄翁、法名を宗也といいます。
大永年間(1521~28)頃に大和国(現:奈良県)西京西村に居住して春日大社の供御器を造り、
「西村」姓を名乗りました。
晩年に武野紹鷗の好みで土風炉を焼成するようになり、
土風炉師・善五郎として名を上げました。
2代 西村善五郎(宗善) 生年不詳~1594(文禄3)年
2代西村善五郎は初代西村善五郎(宗禅)の子として生まれました。
通称を善五郎、号を宗善(宗禅)といいます。
大和国を離れて堺に移住しました。
土風炉の名手であった事が伝えられています。
3代 西村善五郎(宗全) 生年不詳~1623(元和9)年
3代西村善五郎は2代西村善五郎(宗善)の子として生まれました。
通称を善五郎、号を宗全といいます。
堺を離れて京都に移住しました。
細川三斎や小堀遠州等、有力な茶匠の後ろ盾を得たとされています。
小堀遠州より「宗全」の銅印を拝領し、
以後9代まで宗全印が用いられた事から世にその作品は「宗全風炉」といわれています。
4代 西村善五郎(宗雲) 生年不詳~1653(承応2)年
4代西村善五郎は通称を善五郎、号を宗雲といいます。
箱書には俗名で「風炉師善五郎」と記す家例を定めています。
5代 西村善五郎(宗筌) 生年不詳~1697(元禄10)年
5代西村善五郎は通称を善五郎、号を宗筌といいます。
この時代には奈良風炉として長い伝統を誇っていた大和国の土風炉造りも、
次第に下降線を辿っていったようで品質の悪化が指摘されています。
これにより京都での土風炉造りは比重を高めて善五郎の地位も高まっていきました。
6代 西村善五郎(宗貞) 生年不詳~1741(寛保元)年
6代西村善五郎は通称を善五郎、号を宗貞といいます。
7代 西村善五郎(宗順) 生年不詳~1744(延享元)年
7代西村善五郎は通称を善五郎、号を宗順といいます。
善五郎が千家の職家としての地位を強めた結果、
それまで居住していた下京から三千家に近い上京へ移る事になったとされています。
8代 西村善五郎(宗円) 生年不詳~1769(明和6)年
8代西村善五郎は通称を善五郎、号を宗円といいます。
9代 西村善五郎(宗厳) 生年不詳~1779(安永8)年
9代西村善五郎は通称を善五郎、号を宗厳といいます。
10代 西村善五郎(了全) 1770(明和7)年~1841(天保12)年
10代西村善五郎は9代西村善五郎(宗厳)の子として生まれました。
通称を善五郎、号を了全、法号を我此土斎了全といいます。
幼くして両親を失い、三千家の庇護の下に育ちました。
1788(天明8)年に古木町にあった家宅が天明の大火に遭い、
代々襲用してきた宗全印を焼失した為に自分の印を用いました。
1815(文化12)年、樂吉左衛門家に近い油橋詰町に新居を構えました。
1817(文化14)年、養子・保全に家督を譲って隠居し、「了全」と号しました。
「了全」の号は表千家9代了々斎宗左より「了」の字を受けた事に因んでいます。
1827(文政10)年、紀州徳川家の偕楽園焼に出仕して陶家としての地位を確立しました。
当初は家業である土風炉を制作していましたが、後に茶陶への進出も図りました。
11代 永樂善五郎(保全) 1795(寛政7)年~1854(嘉永7)年
11代永樂善五郎は10代西村善五郎(了全)の養子です。
名を千太郎、通称を永樂・善五郎・善一郎、号を保全・陶鈞軒、法号を陶鈞軒安誉保全といいます。
生家は京都上京の織屋・沢井家で大徳寺黄梅院の住職・大綱宗彦の下で喝食となり、
1807(文化4)年頃に宗彦の仲介によって了全の養子となりました。
了全の下で作陶に励んで書は松波流を習得し、
画を狩野永岳、和歌を香川景恒、蘭学を広瀬玄恭・新宮涼庭に師事しました。
1817(文化14)年、11代西村善五郎を襲名しました。
その作陶は三井家等に秘蔵されていた名品に接し、写しを制作する事に始まったとされ、
陶技は伝統的な京焼陶家である粟田口窯の岩倉山家、宝山家等へ出向いて習得しました。
1827(文政10)年に表千家10代吸江斎宗左、10代樂旦入と紀州徳川家の偕楽園焼に出仕し、
紀州徳川家10代藩主・徳川治宝より「河濱支流」の金印と「永樂」の銀印を拝領しました。
以来、「永樂」を陶号とし、1871(明治4)年には「西村」姓から「永樂」姓に改姓しました。
1843(天保14)年には天保の改革による奢侈禁止が陶磁器の分野にも及んで、
保全の作陶にも規制が加わった為、長男・和全に家督を譲って「善一郎」と名乗りました。
しかし、改革実行者である老中・水野忠邦が失脚するとこの苦境も解消され、
その後は意匠や陶技に円熟した保全独自の作風が強く表現されていきます。
関白・鷹司家の御庭焼を務めて「陶鈞軒」の号と「陶鈞」の印章を拝領しました。
又、有栖川宮家より「以陶世鳴」の染筆を拝領して陶工としての存在は確固となりました。
この善一郎時代は理詰めで謹直な陶技に加えて優美さが作品に付加され、
生涯において最も充実した作品が生み出されました。
1847(弘化4)年頃に漆師・佐野長寛の次男・宗三郎(回全)を養子とし、
和全を当主とする善五郎家と並立して新陶家の「善一郎家」を創設し、
宗三郎に家督を継承させる事を保全が計画した事で和全との間に不和が生じました。
1849(嘉永2)年に隠居した以後は専ら「保全」の号を用いています。
1850(嘉永3)年、京都を離れて江戸に活路を求めましたが、その活動は失敗に終わりました。
1851(嘉永4)年、近江国大津の琵琶湖畔に「湖南窯」を開窯しました。
1852(嘉永5)年、摂津国高槻藩主・永井候に召されて「高槻窯」を開窯しました。
更に三井寺円満院の御用窯を築く等、各地を巡って活動しました。
保全時代は作品の質にも不均質なものが見られ、新しい窯場での困難さが垣間見えます。
保全の生涯は順調な前半生に比較して後半生は決して穏やかなものではありませんでした。
染付、色絵、金襴手、古染付、祥瑞、交趾、呉須赤絵、安南、御本、仁清写し等を表現し、
明代風と京焼風の特徴を併せ持つ洗練された高い作風を確立しました。
金襴手では金箔を用いて針彫りしているところに特色があります。
又、交趾の技法に知られる金箔や銀箔を漆で塗り留めた白檀塗も駆使しています。
常に茶陶の真髄を追求する強烈なまでの意志を持って名品の写しで腕を鍛え、
永樂家の名声を上げるべく屈指の名工として充分な業績を残しました。
12代 永樂善五郎(和全) 1823(文政6)年~1896(明治29)年
12代永樂善五郎は11代永樂善五郎(保全)の長男として生まれました。
名を仙太郎、通称を善五郎、号を和全・耳聾軒、法号を耳聾軒目通和全といいます。
1843(天保14)年、12代西村善五郎を襲名しました。
1849(嘉永2)年に義弟・宗三郎(回全)を養子とし、
「善五郎家」と「善一郎家」の統一を図りました。
この家政改革によって名実共に善五郎家は一本化されました。
以後の活動はおおまか以下に区分できます。
1852(嘉永5)年頃~1865(慶応元)年は仁和寺門前の御室窯跡に開窯した「御室永樂窯時代」です。
宗三郎、藤助(曲全)の協力により文久~元治年間(1861~1865)頃には最盛期を迎えました。
1865(慶応元)年頃より「和全」の号を使用したとされています。
1866(慶応2)年~1870(明治3)年は加賀大聖寺10代藩主・前田利極の招請により、
九谷焼の指導と作陶に当たった「九谷永樂窯時代」です。
1871(明治4)年、長男・得全に家督を譲って隠居し、「善一郎」と名乗りました。
「西村」姓から「永樂」姓に改姓しました。
1872(明治5)年~1877(明治10)年は三河国(現:愛知県)岡崎の豪商である、
裏千家の茶人・鈴木利蔵の招請により三河国岡崎甲山に開窯した「岡崎永樂窯時代」です。
1882(明治15)年、油橋詰町を離れて京都東山に「菊谷窯」を開窯しました。
この頃、妻を亡くした上に耳を聾した事から「耳聾軒」と号しました。
保全をも賞嘆させる才能を発揮し、その写しは本歌に迫るものがあります。
御室永樂窯時代以来に見られる器面に布をあてがって絵付けをした布目手、
九谷永樂窯時代に制作した赤絵金彩、金泥ではなく金箔を焼き付けた金襴手等、
和全の真価は茶陶の写しに加えて新規な作風の創造にあるといえます。
岡崎永樂窯時代には日用品を量産し、
明治維新以後の茶道衰微の中で時勢への対応も行っています。
やはり新機軸として注目されるのは斬新な意匠と華麗な色彩に特色のある仁清写しです。
神前や仏前での献茶を契機とした新しい大寄せの茶会形式の中で、
それまで少人数の茶事で用いられる事を前提としてきた茶陶意匠を大幅に変更しました。
明治時代の茶道界における茶会形式の変化に即応する和全の創意が見られます。
茶の湯の復興を背景に和全の作陶の理想である京焼の仁清や乾山、
光悦の芸術を追慕した茶碗を発表して伝統の京焼再興にも尽力しました。
13代 永樂善五郎(回全) 1834(天保5)年~1876(明治9)年
13代永樂善五郎(回全)は塗師・佐野長寛の次男で11代永樂善五郎(保全)の養子となります。
姓を佐野(後に永樂)・西村(分家後)、名を善次郎・宗三郎、号を回全といいます。
1847(弘化4)年頃、保全の養子となりました。
1849(嘉永2)年、12代永樂善五郎(和全)の養子となりました。
後に分家して西村宗三郎と名乗りました。
保全の代作や箱書の代筆、和全と共に御室窯や九谷焼の改良に従事しました。
14代永樂善五郎(得全)を補佐し、
永樂家に尽力した功により藤助(曲全)と共に13代を名乗りました。
13代 永樂善五郎(曲全) 1819(文政2)年~1883(明治16)年
13代永樂善五郎(曲全)は名を藤助、号を陶甫といいます。
幼少より11代永樂善五郎(保全)に養われ、保全と12代永樂善五郎(和全)に仕えました。
和全と共に御室窯や九谷焼の改良に従事しました。
永樂家に尽力した功により宗三郎(回全)と共に13代を名乗りました。
14代 永樂善五郎(得全) 1853(嘉永6)年~1909(明治42)年
14代永樂善五郎は12代永樂善五郎(和全)の長男として生まれました。
名を常次郎、通称を善五郎、法号を守甫軒温誉良円得全、諡号を得全といいます。
1871(明治4)年、14代永樂善五郎を襲名しました。
明治維新後の茶道衰微の時代で家業は低迷していましたが、
こうした中で父は三河国(現:愛知県)岡崎に作陶に出掛けて窮乏からの脱却を図ります。
1873(明治6)年のウィーン万国博覧会、1876(明治9)年のフィラデルフィア万国博覧会、
1878(明治11)年のパリ万国博覧会への出品、1875(明治8)年の京都博覧会品評人就任等、
得全も永樂家を再興する為に明治の陶磁器近代化運動への積極的な参加を図りました。
1882(明治15)年、父と京都東山に「菊谷窯」を開窯して高級茶陶と共に日用品の制作を始め、
永樂家の家計を維持しました。
性格は温和な父よりも名人気質の祖父・11代永樂善五郎(保全)に似ていたとされ、
仁清写し、呉須赤絵を得意とし、男性的な野趣、斬新な意匠の茶碗や花生等を残しました。
義弟・宗三郎(回全)と藤助(曲全)の功績に報いる為、
両者を13代永樂善五郎として自らは14代を名乗りました。
永樂善五郎(妙全) 1852(嘉永5)年~1927(昭和2)年
永樂善五郎(妙全)は14代永樂善五郎(得全)の妻です。
名を悠、号を妙全といいます。
得全の没後に制作は甥・山本治三郎(後の15代永樂善五郎)に任せて家業を継続しました。
1910(明治43)年、三井高保より「悠」の印を拝領しました。
1914(大正3)年、三井高棟より「妙全」の一軸を拝領しました。
約19年間、女手一つで家業を支え、「お悠さん」と呼ばれて親しまれています。
作品には「得全」の印、箱書には「悠」の朱印を捺します。
表千家12代惺斎宗左の好みを多く造り、優美な作品を残しました。
15代 永樂善五郎(正全) 1880(明治13)年~1932(昭和7)年
15代永樂善五郎は14代永樂善五郎(妙全)の甥です。
元姓を山本、名を治三郎、通称を善五郎、号を正全といいます。
妙全の没後、1932(昭和7)年までの約5年間、15代として活躍しました。
妙全生存中はその代作に当たり、大正初年には信楽へ趣きました。
伊賀、信楽の写しを得意とし、彫名に「神楽山」とあります。
12代永樂善五郎(和全)の布目手の技法を再現する為、
使用する布を別機にて織らせて更に精巧なものとしました。
建仁寺4世竹田黙雷老師より「正全」の号を受け、
三井高棟より「正全」印を拝領しました。
16代 永樂善五郎(即全) 1917(大正6)年~1998(平成10)年
16代永樂善五郎は15代永樂善五郎(正全)の長男として京都に生まれました。
名を茂一、通称を善五郎、号を即全といいます。
1930(昭和5)年に京都市立美術工芸学校に入学しましたが、
1932(昭和7)年の父の死去に伴って、
1933(昭和8)年に退学しました。
1935(昭和10)年、16代永樂善五郎を襲名しました。
1936(昭和11)年に三井高棟の大磯城山荘内に「城山窯」を築窯し、
1945(昭和20)年まで作陶に出向きました。
1958(昭和33)年、源氏物語五四帖に因んだ連作を発表しました。
これは1952(昭和27)年に京都大学文学部・吉沢義則の講義を受けた事によります。
1960(昭和35)年、「京都伝統陶芸家協会」の結成に参加して会長に就任しました。
1971(昭和46)年、表千家13代即中斎宗匠より「陶然軒」の席号を授かりました。
1983(昭和58)年、京都府文化功労賞を受賞しました。
1985(昭和60)年、文部省より地域文化功労者として表彰を受けました。
1986(昭和61)年、京都市文化功労者として表彰を受けました。
1990(平成2)年、勲五等瑞宝章を受章しました。
1992(平成4)年、京都府文化賞特別功労賞を受賞しました。
1998(平成10)年、長男・紘一に家督を譲って隠居し、「即全」と号しました。
千家十職による「千松会」等を開催し、茶陶界において精力的に活動しました。
作品は染付、色絵、金襴手、交趾、祥瑞等、華麗で伝統的な茶陶を中心としました。
源氏物語を題材とした「源氏物語五四帖」の茶陶は即全の壮年期を代表する仕事であり、
文学の世界を陶芸に融合させた作品として特筆すべきものです。
17代 永樂善五郎 1944(昭和19)年生
17代永樂善五郎は16代永樂善五郎(即全)の長男として京都に生まれました。
名を紘一、通称を善五郎といいます。
1968(昭和43)年、東京芸大大学院工芸科を修了しました。
1998(平成10)年、17代永樂善五郎を襲名しました。
2021(令和3)年、家督を譲って隠居し、「而全」と号しました。