豪快な気風を湛える美濃古陶の影響を色濃く映した絵唐津沓鉢です。鉄絵の筆致は素朴ながらも伸びやかで、桃山陶の自由闊達な美意識を示しています。見込みから外面にかけて施された長石釉は細かな貫入を生じ、伝世の歳月を物語る景色を備えています。低く構えた高台の削りは鋭く、鉄分を含んだ赤褐色の胎土も魅力的です。本作は「岐阜県有名宝物展覧会」への出陳歴をもち、美濃焼と古唐津の地域を越えて響き合う陶技の交流、造形や意匠に見られる共通性を示す好例として位置付けできます。
- 時代
- 桃山 - 江戸時代
16世紀末期 - 17世紀初期
- 重量
- 797g
- 横幅×奥行
- 16.9×13.8cm
- 高さ
- 8.1cm
- 底径
- 7.0cm
- 次第
- 時代箱(桐箱)
- 来歴
- 岐阜県有名宝物展覧会 出陳作品
- 状態
- ・完品
・総じて良好な状態を保っています
- 窯疵
- ・口縁に窯疵が1箇所あります(画像参照)

古唐津
唐津焼とは肥前国唐津藩を中心とした肥前地方で焼成された陶器であり、
その名称は唐津港から積み出されたことに由来します。
茶陶としても高く評価され、「一樂、二萩、三唐津」と謳われるほど、茶人たちの間で親しまれてきました。
その起源は16世紀末期、佐賀県北部・唐津市北波多地区に遡り、
岸岳城主・波多三河守親が朝鮮より陶工を招いて開窯したとされ、城下には草創期の古窯跡が点在しています。
1593(文禄2)年に波多氏が豊臣秀吉の勘気に触れて改易されると、
陶工たちは肥前各地へ離散しました(岸岳崩れ)。
その後、寺沢志摩守広高が入封し、唐津藩が成立しました。
この改易と窯の廃業は唐津焼が1593(文禄2)年以前、
すなわち、天正年間(1573–92)頃から既に焼成されていた事を示す重要な根拠となっています。
文禄・慶長の役(1592–98)により渡来した陶工たちの技術は、
桃山から江戸初期にかけて唐津焼の隆盛を支えました。
豊臣秀吉が名護屋城に滞陣した際には、古田織部も1592(文禄元)年から約一年半滞在し、
唐津諸窯を指導したと伝えられています。
また、連房式登窯が唐津から美濃に伝わって、久尻元屋敷に築窯されたりと、
朝鮮からの技術導入が日本の窯業にもたらした影響は計り知れません。
唐津焼の名は、1602(慶長7)年の「織部茶会記」に「唐津焼皿」として初出しされ、
慶長年間(1596–1615)には多くに記録されています。
17世紀中頃には「古唐津」という表記も見られ、既に歴史的価値が認識されていたことが窺えます。
唐津焼の多くは日常の器として量産されたものですが、桃山から江戸初期にかけて点茶が流行すると、
茶人の眼に留まって茶陶として見立てられるようになりました。
中には茶人による注文品も存在し、その希少性から高い評価を受けています。
17世紀には渡来陶工・李参平(和名:金ヶ江三兵衛)が泉山で陶石を発見し、磁器焼成に成功したことで、
唐津焼に大きな転機をもたらします。
伊万里焼の台頭は唐津焼の衰退を招き、江戸前期には三島唐津や二彩唐津などに特色が見られるものの、
古唐津の魅力には及ばず、以後は御用窯(御茶碗窯)が細々と存続するのみとなりました。
昭和初期には金原陶片(1897-1951)、水町和三郎(1890-1979)、古舘九一(1874-1949)らによる研究も進み、
肥前一帯の古窯跡から数万点に及ぶ陶片資料が発掘されました。
飾らぬ土味、郷愁を誘う豊かな色合いは朗らかさと健やかさに満ちており、
唐津焼はまさに土と炎が織り成す日本陶芸の真髄といえる存在です。
古唐津と美濃焼
古唐津と美濃焼の間には器形や意匠に多くの共通点が認められます。
文禄の役に際し、豊臣秀吉が名護屋城に滞陣した折、
古田織部も1592(文禄元)年から約一年半滞在したと伝えられています。
波多氏の改易後に唐津藩主となった寺沢志摩守広高は織部と同門の茶人であり、
かつ美濃出身であったことから、両者の関係は特に深かったとされます。
このような背景から、織部が唐津諸窯に指導を行った可能性も指摘されていますが、
実際には織部の指導というよりも美濃陶の影響を受けたものと考察されます。
唐津で沓茶碗を焼成した諸窯は、甕屋の谷窯(松浦系古唐津)、大川原窯(松浦系古唐津)、
高麗谷窯(多久系古唐津)、内田皿屋窯(武雄系古唐津)、牛石窯(平戸系古唐津)、
祥古谷窯(平戸系古唐津)、李祥古場窯(平戸系古唐津)などが著名であり、
加藤景延がこれらの主要窯を訪れたと推定されています。
また、連房式登窯が唐津から美濃へ伝わり、久尻元屋敷に築窯されたことも特筆されます。
朝鮮からの技術導入が日本の窯業にもたらした影響は計り知れません。
















