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 天平堂
濁手藪手毬文香炉(14代 酒井田柿右衛門)-y1

濁手藪手毬文香炉(14代 酒井田柿右衛門)

170,000(税込)

藪手毬文が柔らかみある濁手を美しく彩った香炉です。器形の品格、鮮やかな色彩、余白の美が調和し、凛とした優美な佇まいは空間を引き締める孤高の存在感を秘めています。

作家
14代 酒井田柿右衛門
1934(昭和9)年-2013(平成25)年
人間国宝
重量
369g
横幅
10.9cm
口径
7.6cm
高さ
11.8cm
次第
識箱(酒井田浩)
共布
状態
完品

良好な状態を保っています。

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14代 酒井田柿右衛門 1934(昭和9)年-2013(平成25)年

14代酒井田柿右衛門は13代酒井田柿右衛門の長男として、佐賀県に生まれました。
本名を正といいます。
1958(昭和33)年、多摩美術大学日本画科を卒業後に帰郷し、12代と13代に師事しました。
1967(昭和42)年、一水会会長賞を受賞しました。
1971(昭和46)年、日本工芸会正会員となりました。
1982(昭和57)年、14代酒井田柿右衛門を襲名しました。
日本工芸会理事、柿右衛門製陶技術保存会会長に就任しました。
1983(昭和58)年、アメリカ・サンフランシスコ市より名誉市民の称号を授与されました。
1984(昭和59)年、日本陶磁協会賞、佐賀県知事賞を受賞しました。
1986(昭和61)年、日本工芸会奨励賞を受賞しました。
1992(平成4)年、一水会陶芸部運営委員に就任しました。
日本工芸会奨励賞を受賞しました。
1993(平成5)年、国際陶芸アカデミー(IAC)名誉会員となりました。
1994(平成6)年、日本伝統工芸展監査委員に就任しました。
1997(平成9)年、佐賀県陶芸協会会長に就任しました。
1998(平成10)年、外務大臣表彰を受けました。
1999(平成11)年、九州産業大学大学院芸術研究科専任教授に就任しました。
文部大臣表彰を受賞しました。
2000(平成12)年、有田陶芸協会会長に就任しました。
2001(平成13)年、佐賀県立有田窯業大学校長に就任しました。
重要無形文化財「色絵磁器」保持者(人間国宝)に認定されました。
佐賀新聞文化賞を受賞しました。
2005(平成17)年、旭日中授章を受章しました。
有田町名誉町民の称号を授与されました。
2006(平成18)年、日本工芸会副理事長に就任しました。
2007(平成19)年、西日本文化賞を受賞しました。
伝統技術を踏襲しながらも時代の感性を織り込んだ作品世界を展開し、
近代柿右衛門の名工として、色絵磁器の美と精神に深い足跡を残しました。


濁手

柿右衛門様式の最盛期を象徴する技法として知られる「濁手(にごしで)」は、
佐賀地方の方言で「米の研ぎ汁」を意味する「濁」に由来し、
その名の通り、温かみのある乳白色の素地を特徴とします。
海外では「Milky-White」と称され、
色絵の鮮麗さを際立たせる理想的な白磁として高く評価されました。
濁手は白磁や染付の素地のように青みを帯びず、
絵師の筆による余白を活かした文様が柔和な素地と調和する事で、
柿右衛門様式ならではの優雅な色彩美を生み出します。
この素地を得るには、陶石や釉薬の原料から鉄分を始めとする不純物を丹念に取り除き、
極めて薄く釉薬を施す必要があり、染付との併用は原則として行われません。
酒井田家に伝わる1690(元禄3)年の「土合帳」には、濁手素地の調合比として、
泉山、白川、岩谷川内の陶石を6:3:1の割合で用いた記録が残されています。
焼成時の収縮率の違いによる破損も多く、皿等の平物では約五割、
壺等の立体物では約二割しか成功しなかったとされ、
この歩留まりの悪さも濁手が途絶えた要因の一つと考えられています。
濁手は欧州への輸出を目的として開発された至高の技術であり、
柿右衛門様式における最高品質の白磁素地として確立されました。
延宝年間(1673-81)に最盛期を迎え、
南川原窯ノ辻窯で最上手の典型作が焼成された可能性が高いとされています。
1650年代には楠木谷窯にて色絵専用素地の試作が始まっていた事も窺えますが、
当初は成形の粗さや微量の鉄分が残る等、完成には至っていませんでした。
18世紀以降は磁器輸出の減少と共に、濁手も姿を消しましたが、
1953(昭和28)年に12代と13代酒井田柿右衛門氏によって濁手の復興が果たされました。
濁手の呼称はいつ頃から使用され始めたのかは判然としていませんが、
江戸時代の文献には見られない事からも、近代(昭和初期)以降の呼称と考えられています。


濁手と錦手の峻別

14代酒井田柿右衛門は自らの手による濁手を「自作物」と位置付け、
それ以外の錦手(量産型の高級調度品)は「窯物」とし、用途と制作体制において峻別しました。
濁手(自作物)は「無銘」を原則とし、錦手(窯物)には「染付銘」が施されています。
濁手の制作は柿右衛門製陶技術保存会の精鋭技術者によって担われ、
伝統技法の厳密な継承と共に、過去の模倣に留まらない孤高の表現が追求されました。