古染付の美しい藍色に劣らぬ滋味に富んだ炉台です。美しい桃の花弁が清らかに流れる水に浮かび、遥か遠くに流れていく様子を詠んだ李白の「山中問答」が連想されます。額皿としても室礼を俗世と隔絶した幽玄な佇まいへと昇華してくれます。魯山人は呉昌碩から篆書扁額「随縁艸堂」を拝領し、「縁」を「緑」に変えた「随緑艸堂」の落款を絵画作品や愛着の深い作品に使用しました。(※額装のご相談も承っております)
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- 商品コード
- 241007-1
- 作者
- 北大路魯山人
1883(明治16)年~1959(昭和34)年
- 重量
- 399g
- 口径
- 13.7cm
- 高さ
- 1.7cm
- 次第
- 共箱
- 状態
- 完品
良好な状態を保っています。
北大路魯山人 1883(明治16)年~1959(昭和34)年
生い立ち
北大路魯山人は上賀茂神社の社家・北大路清操の次男として京都府に生まれました。
本名を房次郎、号を海砂・魯卿・魯山人・夢境といいます。
伝聞によれば母・登女の不義の子であり、その事を知った清操は房次郎が生まれる前に自刃して果てました。
このような特殊な事情から出生と同時に里子に出され、養家を転々とする逆境に生い立ちました。
1889(明治22)年、木版師・福田武造の養子となりました。
1893(明治26)年に梅屋尋常小学校を卒業後、二条烏丸の漢方薬舗「千坂和薬屋」へ丁稚奉公に出ました。
1895(明治28)年に「第四回内国勧業博覧会」で竹内棲鳳(後の栖鳳)の日本画に感銘を受け、
日本画家を志しました。
1896(明治29)年に奉公を辞めて養父に京都府画学校への進学を願い出るが叶わず、
家業の木版仕事を手伝います。
1897(明治30)年、日用百科全書『書法自在』や法帖等を買い求めて書道家を志します。
書の才能が開花
1899(明治32)年、西洋看板(ペンキ塗)で収入が豊かになり、近所で「先生」と呼ばれます。
1904(明治37)年に日本美術展覧会で褒状一等二席を受賞し、
受賞作品が宮内大臣・田中光顯子爵に買い上げられました。
1905(明治38)年に版下書家・岡本可亭に師事し、「福田可逸」と名乗って帝国生命保険会社の文書掛となりました。
1907(明治40)年、可亭から独立し、「福田鴨亭」と名乗って書道教授の看板を掲げました。
1908(明治41)年、安見タミと結婚しました。
老舗書肆・松山堂の藤井利八と知り合い、娘・せきを知ります。
1910(明治43)年、母・登女を伴って朝鮮京城に渡りました。
1911(明治44)年、朝鮮京龍印刷局書記となりました。
1912(明治45)年に上海で呉昌碩と面会し、
1913(大正2)年に「あまねく世界を見渡した」の意である「大観」を名乗り、
書道教室を開きながら書と篆刻を生業として評判を高めます。
柴田邸で憧れの竹内栖鳳と会って款印制作を依頼されます。
1914(大正3)年、タミと協議離婚しました。
1915(大正4)年、「北大路」姓に復しました。
金沢の細野燕臺の食客となり、燕臺を介して須田菁華の下で染付や赤絵の自作を試みます。
1916(大正5)年、藤井せきと結婚しました。
「北大路大観」、「北大路魯卿」を名乗ります。
「大雅堂美術店」と「美食倶楽部」
1917(大正6)年、中村竹四郎と知り合いました。
1919(大正8)年、東京京橋に中村竹四郎と「大雅堂芸術店」を創業しました。
北鎌倉・円覚寺傍の借家へ引っ越しました。
この頃から「魯山人」の号を使用します。
1920(大正9)年、「大雅堂美術店」と改称しました。
大雅堂美術店で商品の古陶磁に自らが料理を盛って出すようになります。
1921(大正10)年に大雅堂美術店の二階で会員制「美食倶楽部」を発足しました。
北鎌倉・明月谷に転居しました。
1922(大正11)年、須田菁華窯や宮永東山窯で美食倶楽部用の器を制作するようになります。
正式に北大路家の家督を相続し、「魯山人」を名乗りました。
1923(大正12)年、関東大震災で大雅堂美術店と美食倶楽部が焼失しました。
芝公園内の「花の茶屋」で美食倶楽部を再開します。
会員制高級料亭「星岡茶寮」の開業
1924(大正13)年に宮永東山窯で青磁や茶寮用の器を100人前の5,000点超を制作し、
同窯で工場長を務めていた荒川豊蔵と知り合いました。
東京赤坂山王台の日枝神社境内にあった「星岡茶寮」を借り受けて改修工事を開始しました。
星岡茶寮開業の資金調達に支那古文具の販売を思い付き、
支那文具に詳しい内海羊石を誘って上海の呉昌碩を訪ね、
帰国後に販売して大きな利益を得ました。
1925(大正14)年、会員制高級料亭「星岡茶寮」を開業しました。
中村竹四郎が社長、魯山人は顧問兼料理長として接待、器に対する卓抜な演出で評判を取り、
官、財、政界の社交場として急激に会員を増やしていきます。
眞清水蔵六窯で小山冨士夫と知り合います。
「星岡窯」を築窯
1927(昭和2)年に星岡茶寮で使用する理想となる器を求めて、
神奈川県鎌倉市山崎に「星岡窯」を築窯しました。
宮永東山窯の荒川豊蔵を窯場主任に迎え、
窯場に魯山人の蒐集品を陳列した「古陶磁参考館」、茶室「夢境庵」を建て、
「魯山人窯藝研究所 星岡窯」の看板を揚げました。
せきと協議離婚し、中島きよと結婚しました。
「坐辺師友」をモットーに織部、志野、黄瀬戸等の美濃焼系を始め、
乾山、仁清、道八等の京焼系の物にまで造形の理想を求めた幅広い作陶を展開しました。
1928(昭和3)年、久邇宮両殿下に御来窯御台臨を賜りました。
1929(昭和4)年、カルピス社長・三島海雲が星岡茶寮の支店として銀座に「銀茶寮」を開業しました。
1930(昭和5)年に荒川豊蔵が志野陶片を大萱の牟田洞で発見すると、
現地に赴いて美濃諸古窯の発見を主なテーマとして「星岡」を刊行しました。
1933(昭和8)年、銀茶寮が星岡茶寮の直営となりました。
1935(昭和10)年、「大阪星岡茶寮」を開業し、関西の食通人に好評を博しました。
カルピス社長が開業した「銀茶寮」を直営化する等の経営規模を拡大しましたが、
この頃から運営方針をめぐって中村竹四郎との関係が悪化します。
瀬戸式大登窯による初窯で志野、織部、黄瀬戸等の桃山陶再現に成功しました。
星岡茶寮の会員総数は二千数百名となり、
「星岡の会員に非ざれば日本の名士に非ず」と言われるようになります。
1936(昭和11)年、放漫経営を理由に中村竹四郎より解雇通知を受けました。
看板を「魯山人雅陶藝術研究所」に掛け替え、星岡窯を拠点に作陶一本で進む決意を固めます。
この頃から徐々に「魯卿」の名を使う事が減ってきます。
星岡窯を拠点とした作陶生活
解雇による自信喪失した魯山人の有様を見て、
「わかもと」の長尾欽弥や支援していた企業のトップから贈答用の陶磁器制作の依頼が来て、
次第に自信を取り戻していきます。
1938(昭和13)年、きよが元星岡窯の職人と駆け落ちして離婚しました。
日本橋・白木屋本店地階食料品売場に山海珍味を取り寄せて販売する「山海倶楽部」を開店しました。
この頃より良寛に傾倒し始めます。
熊田ムメと結婚しました。
1939(昭和14)年、ムメと協議離婚しました。
料理旅館の食器として陶磁器や漆器を大量に制作しました。
特に東京の「福田屋」、名古屋の「八勝館」等は魯山人所縁の料亭として有名です。
1940(昭和15)年、中道那嘉能(芸者・梅香)と結婚しました。
絵画を描く事に傾注しました。
1942(昭和17)年、那嘉能と離婚し、以後は再婚しませんでした。
戦中時代
1943(昭和18)年には戦時色が強くなって物資統制もあり、
火が使えない状況になると髹漆(漆芸)に没頭しました。
1945(昭和20)年、大阪星岡茶寮、東京星岡茶寮、銀茶寮が空爆で焼失しました。
中村竹四郎との10年間に亘る資産問題が示談解決(星岡窯は魯山人、蒐集品は折半)。
1947(昭和22)年、城野豊子が銀座に魯山人の専売店「火土火土美房」を開店しました。
魯山人作品が占領軍の将校達の目を引いた事で、
日本人だけを相手にしてきた魯山人の意識に一大変革が起きてグローバル化していきます。
真船豊達が魯山人を囲んで芸術愛好会「生新倶楽部」を発足しました。
1948(昭和23)年、「魯山人工藝處」が誕生しました。
戦時中に休んでいた星岡窯が再開されました。
晩年期
1949(昭和24)年、伊部の金重陶陽の窯をしばしば訪れるようになります。
1951(昭和26)年、南仏・ヴァロリスの現代日本画陶芸展でピカソが魯山人の「紅志野皿」を激賞しました。
1952(昭和27)年、イサム・ノグチと伊部の金重陶陽の窯を訪問して備前作品を制作しました。
1953(昭和28)年、金重陶陽や藤原啓が来窯して自邸に備前焼の窯を築窯しました。
1954(昭和29)年にイサム・ノグチの勧めもあり、日米協会の会長をしていたロックフェラーの招きを受け、
約200点の作品と共にアメリカ各地を廻って講演会や展覧会を開催しました。
ニューヨークの近代美術館(MoMA)やワシントンのフリーア美術館等で好評を博しました。
1955(昭和30)年、前田友斎の紹介で善田昌運堂の善田喜一郎を知ります。
重要無形文化財「織部焼」の保持者(人間国宝)に勧告を受けるも辞退しました。
1959(昭和34)年、ジストマ虫による肝硬変で逝去しました。
人格的に毀誉褒貶定まらず、晩年の魯山人は世評が極めて悪かったので、
没後の作品は埋もれていくかに思われましたが、
アメリカで起きた魯山人ブームが逆輸入されると作品の価格は瞬く間に上昇しました。
画家、篆刻家、書道家、料理家、陶芸家、漆芸家として各方面に優れた実績を残し、
古陶磁にも眼識を持って美食と本物の器を求め続けました。
「器は料理の着物」という言葉に体現されるように和食の魅力を追求した革新に挑み、
魯山人が実践した様々な試みは今や和食文化の一部として受け継がれています。
焼物本来の実用性を重視した見識が近年の食や器への関心に導いた功績は多大です。
優美さと奥深さを備えた自由奔放な作行を示しており、
中でも楽焼の色絵椿文鉢、織部や備前の俎皿等に独自性が最もよく発揮されています。
漫画『美味しんぼ』の登場人物・海原雄山のモデルとしても知られています。