奩(れん)とは古代中国の金属器の温酒器を写した器形であり、樽(そん)とも呼ばれます。被葬者への祈りを込め、墳墓に副葬する為に造られた明器であり、青銅器に代わって後漢時代に隆盛しました。蓋は神仙が棲むとされる博山を型抜きで模り、胴部にも型押しで獣や狩人といった狩猟文が配されています。神仙思想の憧憬となる理想郷を熊(熊足)が背負っているようです。現代アートと取り合わせてもシックな空間となります。
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- 商品コード
- 240902-6
- 時代
- 後漢時代
1~3世紀
- 重量
- 2,310g
- 径
- 20.5cm
- 口径
- 19.5cm
- 高さ
- 22.9cm
- 次第
- 桐箱
- 状態
- 良好
部分的な釉剥げ以外には目立った痛みもなく、美しい総銀化となった良好な状態を保っています。
漢緑釉
色目の煌びやかな鉛釉陶器は被葬者への祈りを込め、漢時代に入ってから盛んに造られた明器です。
古代中国では死後の世界は現世の延長であると考えられ、
生前と同様に豊かな生活を過ごせるように壺、飲食器、動物、家屋、井戸等の器物が確認されています。
土は細密で鉄分を多く含んでおり、鉛釉に酸化銅を呈色剤とすると緑色が得られます。
低火度鉛釉は1,000℃以上の高温に達すると揮発してしまう為、700~800℃の低火度焼成が行われました。
緑釉は後漢時代の1~2世紀頃に陝西省や河南省で流行し、
中核を成す工房は長安と洛陽の二都を中心に配置されていましたが、
これは明器を所望する貴族階級の人々が都近郊に集中していた為であり、
出土例がこの地域に集まってくるのは必然です。
緑釉の表面には長年の土中で鉛が析出して銀虹色の被膜を生じた物も多く、
「銀化」や「ラスター」と呼ばれて神秘的な美しさが賞翫されます。
前漢時代に隆盛した褐釉(酸化鉄を呈色)は緑釉全盛の陰に没していき、
生産量は後発の緑釉が圧倒的に多いです。
釉薬は厚くたっぷりと施されていますが、壷や瓶の内部は無釉であり、
実用品ではない明器故に外側の目に付く部分だけに釉薬が掛かっていれば問題ありませんでした。
緑釉も褐釉も殆どが単独で用いられますが、稀に二釉を一器に併用する事があります。
褐釉を一面に掛けた後、部分的に緑釉を加えたり、緑釉で彩色したりしています。
逆に緑釉地に褐釉を加えるといったケースは知られていません。
この二釉の併用は緑釉が安定せずにかせて剥落し、美しい二彩になった例は少ないです。
壷の口と口とを重ねた焼成方法が執られた事から口縁の釉薬は剥離しており、
上下を逆にして窯詰めされた壷は釉薬が頸から口の方向へ流れて口縁に釉溜りが突起しています。
漢緑釉は1970年代頃まで高嶺の花とされてきましたが、
中国の改革やインフラ開発に伴い、1980年代に漢や唐時代の墳墓が発見される事で、
漢緑釉や唐三彩が日本に大量に持ち込まれ、需給バランスを崩してしまいます。
名品として取り扱われてきた作品は大量の発掘品とは一線を画し、一緒くたとされる物ではなく、
瑞々しい緑釉や美しい銀化を纏った優品は変わらず人々を魅了し続けています。