裏千家(今日庵)

Urasenke

裏千家(今日庵)とは千利休の血脈を継承する三千家の一つです。
名称の由来については裏千家を代表する茶室・今日庵が表千家の茶室・不審菴に対して、通りの裏にあるからとされています。
代々の家元は4代仙叟宗室より加賀藩前田家の茶頭を務め、加えて5代常叟宗室より幕末に至るまで伊予国伊予松山藩松平(久松)家の茶頭も務めました。
当代は「宗室」を名乗りますが、後嗣(若宗匠)には特定の名を名乗る伝統はありません。
1940(昭和15)年に淡交会が設立され、1953(昭和28)年に社団法人としての認可を受けます。
社団法人茶道裏千家淡交会は家元指導方針を会員が尊守し、裏千家茶道の基本的な点前作法を全国的に統一し、茶道文化に関する研究調査を行うと共に、財団法人今日庵の目的事業の後援・振興と茶道を修好する方々の研修・福利厚生を図り、日本文化の交流発展に寄与する事を目的とします。
「淡交会」とは14代淡々斎宗室の斎号に因んで命名されたもので、荘子の「君子之交淡若水(君子の交わりは淡きこと水の若し)」に由来します。
淡々としてあたかも水が流れるように何事にも執着せず、どんな時にも感情に流されない平常心の交わりを意味した茶禅一味の精神を根本とします。
1947(昭和22)年、財団法人国際茶道文化協会が設立されました。
財団法人国際茶道文化協会は日本の伝統文化茶道をもって世界平和の為に貢献し、国際親善に寄与する事を目的としています。
1949(昭和24)年、財団法人今日庵が設立されました。
財団法人今日庵は千利休以来の茶道精神を伝承して現在に普及させる事によって、日本文化の興隆と発展に貢献し、茶室「今日庵」を始めとする重要文化財指定の建造物や遺跡遺品の保存を目的とします。
今日庵とは千宗旦が隠居した茶室の名であると共に裏千家の機構全体を総称します。
庵号「今日庵」は利休が参禅した古渓宗陳の禅語「不審花開今日春」に由来したもので、不審菴(表千家を代表する茶室)に続いたものと伝えられています。
1962(昭和37)年に茶道研修所が設立され、1971(昭和46)年に裏千家学園、1976(昭和51)年に専修学校、1983(昭和58)年に学校法人裏千家学園茶道専門学校となります。
茶道研鑽の為の専門学校であると同時に家元に直属する研修道場でもあります。
ここで学ぶのは芸術性、哲学性、社交性、道徳性、宗教性等を包み込む総合文化の茶道で、「和・敬・清・寂」の基本精神の下、「道・学・実」を実践しています。
1994(平成6)年、裏千家と天津商業大学の合弁で天津商業大学裏千家茶道短期大学が設立。中国の地で茶道と中国文化を学ぶ事は茶道の原点を知り、日中両国の文化や心を結ぶ架け橋となります。
現在の茶道人口の過半数は裏千家門下と推定されており、最大の茶道流派組織です。


裏千家4代 仙叟宗室 1622(元和8)年~1697(元禄10)年
裏千家4代仙叟宗室は千宗旦の四男として生まれました。
幼名を長吉郎、名を玄室・宗室、号を仙叟、朧月庵といいます。
若き日は野間玄琢に師事して医師を志し、「玄室」と名乗っていましたが、玄琢が急逝すると千家の父の許に戻って茶道の薫陶を受けました。
1651(慶安4)年に加賀藩3代藩主・前田利常の茶頭茶具奉行として出仕し、小松城内の三の丸に屋敷を賜りました。
「宗室」と改めた事で今日庵、又隠、寒雲亭等の茶室を委ねられました。
1658(万治元)年に利常候と父が逝去した事で京都に帰郷しましたが、1661(寛文元)年に金沢城下の味噌蔵町に屋敷を賜ると金沢と京都の往来が増えました。
1671(寛文11)年、加賀藩5代藩主・前田綱紀に茶頭として出仕しました。
大樋長左衛門や宮崎寒雉を指導して好みの茶道具を造らせた事でも知られています。
裏千家の基礎を固めた仙叟宗室より代々「宗室」を名乗るようになりました。
裏千家5代 常叟宗室 1673(延宝元)年~1704(宝永元)年
裏千家5代常叟宗室は裏千家4代仙叟宗室の長男として生まれました。
幼名を与三郎、名を宗安・宗室、号を常叟・不休斎・方山といいます。
父に続いて加賀国加賀藩前田家に茶道奉行として出仕し、後に伊予国伊予松山藩松平(久松)家に出仕する基礎を築き上げました。
裏千家6代 泰叟宗室 1694(元禄7)年~1726(享保11)年
裏千家6代泰叟宗室は裏千家5代常叟宗室の長男として生まれました。
幼名を政吉郎、名を宗安・宗室、号を六閑斎・泰叟といいます。
父が早世したので11歳で裏千家6代家元を襲名し、表千家6代覚々斎宗左の薫陶を受けて成長しました。
裏千家7代 竺叟宗室 1709(宝永6)年~1733(享保18)年
裏千家7代竺叟宗室は裏千家6代覚々斎宗左の次男として生まれ、裏千家6代六閑斎宗室の養子となりました。
幼名を政之助、名を宗乾・宗室、号を竺叟・最々斎といいます。
大徳寺寸松庵5代竜厳宗棟より「竺叟」の号を授かり、若き当主としての一歩を踏み出しましたが、25歳で早世しました。
裏千家8代 一燈宗室 1719(享保4)年~1771(明和8)年
裏千家8代一燈宗室は表千家6代覚々斎宗左の三男として生まれ、裏千家7代竺叟宗室の早世によって裏千家8代家元を襲名しました。
幼名を十一郎、名を宗室、号を又玄斎・一燈・勿々軒・梅含堂・寒雲といいます。
茶道人口の増大に伴って茶の湯が遊芸化へと傾きつつあった時、茶道修練に七つの式作法を定めた七事式を兄・表千家7代如心斎宗左達と制定した功績は高く評価されています。
1758(宝暦8)年、宗旦百年忌の茶会を催しました。
阿波国徳島藩蜂須賀家の招きによって阿波へも赴いています。
裏千家9代 石翁宗室 1746(延享3)年~1801(享和元)年
裏千家9代石翁宗室は裏千家8代一燈宗室の長男として生まれました。
幼名を粂三郎、名を玄室・宗室、号を不見斎・石翁・寒翁・寒雲・洛北閑人といいます。
1788(天明8)年に天明の大火で焼失した家元の復興に尽力し、翌年の1789(天明9)年には又隠を修復し、利休二百年忌の茶会を催しました。
裏千家10代 認得斎宗室 1770(明和7)年~1826(文政9)年
裏千家10代認得斎宗室は裏千家9代石翁宗室の長男として生まれました。
幼名を与三郎・粂三郎、名を宗室、号を認得斎・栢叟といいます。
後妻の松室宗江は裏千家11代玄々斎宗室の教育に尽力し、長女・てる子も茶名が高いです。
裏千家11代 玄々斎宗室 1810(文化7)年~1877(明治10)年
裏千家11代玄々斎宗室は三河国奥殿藩4代藩主・松平縫殿頭乗友の子として生まれ、裏千家10代認得斎宗室の婿養子となりました。
幼名を千代松・栄五郎、名を宗室、号を不忘・虚白斎・寒雲・精中・玄々斎、歌号を長雲といいます。
10歳で裏千家に迎えられ、成人して認得斎宗室の長女・てる子と結婚します。
1839(天保10)年から1840(天保11)年に亘って、利休二百五十年忌の茶会を催しました。
これを機に表門や玄関を始め、咄々斎、大炉の間、抛筌斎、精々軒等の増築を行いました。
50歳の記念として九条尚忠公より「精中」の号を授かりました。
前田家や松平(久松)家のみならず、松平家出身という関係から尾州徳川家から300石を賜り、太守・徳川斉荘に台子の奥秘を伝授しています。
1865(慶応元)年に宮中での献茶の儀が実現し、1866(慶応2)年に和巾点を復興しました。
1872(明治5)年には『茶道の源意』を時の政府に提出し、茶道が遊芸ではない事を明らかにして茶道界に大きく貢献しました。
幕末から明治の変動期に逸早く外国人を迎える為の立礼式を始めとし、茶箱点を創案する等、新しい時世に即応した裏千家の基礎を固めました。
裏千家12代 又玅斎宗室 1852(嘉永5)年~1917(大正6)年
裏千家12代又玅斎宗室は京都の名家・角倉玄寧の子として生まれ、裏千家11代玄々斎宗室の婿養子となりました。
名を宗室・玄室、号を直叟・幽軒・又玅斎といいます。
玄々斎の長女・猶鹿子の婿として千家に入籍し、1871(明治4)年に裏千家12代家元を襲名しました。
1885(明治18)年、長男・駒吉に家督を譲って隠居してからは「玄室」を名乗りました。
猶鹿子は真精院と名乗って女学校の茶儀科、宮家、旧公家等に茶道を指南し、婦人層への茶道浸透を図った事でも知られています。
裏千家13代 圓能斎宗室 1872(明治5)年~1924(大正13)年
裏千家13代圓能斎宗室は裏千家12代又玅斎宗室の長男として生まれました。
幼名を駒吉、名を宗室、号を対流軒・圓能斎・寒雲・鉄中といいます。
北白川宮能仁親王より「圓能」、小松宮彰仁親王より「鉄中」の号を授かりました。
1907(明治40)年、宗旦二百五十年忌の茶会を催しました。
1908(明治41)年、『今日庵月報』を発刊しました。
女学校教育の中に茶道を取り入れ、婦人層による茶道隆盛の基礎を築き上げました。
女学校茶儀科の教授方針を統一する為、1911(明治44)年に夏季講習会を創始して恒例の行事としました。
三友式や濃茶各服点を創案し、流し点、大円真、大円草の点前を復興する等、大いに流儀の繁栄に尽力し、近代茶道界の先駆的な役割を果たしました。
裏千家14代 淡々斎宗室 1893(明治26)年~1964(昭和39)年
裏千家14代淡々斎宗室は裏千家13代圓能斎宗室の長男として生まれました。
幼名を政之輔、名を永世・宗叔・宗室、号を玄句軒・玄句斎・淡々斎・碩叟・梅糸庵・無限斎、画号を玄石といいます。
大徳寺488世全提要宗より「無限斎」、九条家より「淡々斎」の号を授かりました。
1923(大正12)年、裏千家14代家元を襲名しました。
門下の養成ばかりでなく、各宮殿下や神社仏閣への献茶奉仕も積極的に行いました。
学校教育への茶道導入を働きかけた結果、学校のクラブ活動での大半は裏千家となります。
時には海外にまでその教化を計り、茶道普及に奔走した功績は多大です。
社団法人茶道裏千家淡交会や財団法人今日庵を設立し、現代における茶道普及・伝統保持という組織機構の基礎を築き上げました。
桐蔭席、甘雨亭、玉秀庵等の名席も残しています。
紺綬褒章、紫綬褒章、勲三等旭日中綬章を受章しました。
一行物を始めとする遺墨や各種の著述にも大いにその才を発揮しました。
裏千家15代 鵬雲斎宗室 1923(大正12)年生
裏千家15代鵬雲斎宗室は裏千家14代淡々斎宗室の長男として生まれました。
幼名を宗興、名を宗室・玄室、号を鵬雲斎・汎叟といいます。
1946(昭和21)年、同志社大学法学部経済学科を卒業後にハワイ大学に修学しました。
1949(昭和24)年に大徳寺503世瑞巌宗碩より、安名「玄秀宗興居士」、斎号「鵬雲斎」を授かりました。
1964(昭和39)年、裏千家15代家元を襲名しました。
1973(昭和48)年に妙心寺管長・梶浦逸外老師より虚心の法名「垂示」を授かり、虚心庵住職に就任しました。
藍綬褒章を受章しました。
1980(昭和55)年、紫綬褒章を受章しました。
1983(昭和58)年、京都市文化功労者として表彰を受けました。
1989(平成元)年、外務大臣表彰、防衛庁長官表彰、文化功労者として表彰を受けました。
1991(平成3)年に『茶経と我が国茶道の歴史的意義』の論文により、中国国務院学位委員会の審査試問を経て、南開大学より外国人初の哲学博士号を授与されました。
1994(平成6)年、勲二等旭日重光章を受章しました。
1995(平成7)年、国際交流基金賞を受賞しました。
1997(平成9)年、茶道界として初の文化勲章を受章しました。
2002(平成14)年、長男・宗之に家督を譲って、大宗匠「千玄室」と改名しました。
「玄室」とは裏千家4代仙叟宗室の襲名前の名で、裏千家12代又玅斎宗室も家督を譲って隠居してからは「玄室」を名乗りました。
中華人民共和国文化交流貢献賞を受賞しました。
2005(平成17)年、外務省より日本・国連親善大使の称号を受けました。
国際ロータリー栄誉賞を受賞しました。
社団法人茶道裏千家淡交会理事、財団法人国際茶道文化協会名誉顧問、国際ロータリー日本財団会長、財団法人日本国際連合協会会長、財団法人京都市国際交流協会理事、財団法人平安建都1200年記念協会会長、京都市生涯学習総合センター所長、財団法人生涯学習かめおか財団理事、社団法人日本馬術連盟会長、国際機関沖縄誘致推進センター顧問、日本青年会議所会頭、国際青年会議所副会頭、中央教育審議会委員、国語審議会委員、社会教育審議会委員、大学審議会委員、京都府公安委員会委員、日本オリンピック委員会評議員、宝塚造形芸術大学大学院教授、中国芸術研究院芸術顧問、京都学園大学名誉教授、中国・天津商業大学裏千家茶道短期大学学長、中国・南開大学東方芸術学部顧問教授、ハワイ大学歴史学部教授、モスクワ大学名誉教授等の要職を歴任しました。
世界の多くの大学で日本文化・茶道の講座を開設して芸術交流に貢献した事から、ハワイ大学人文学名誉学位文学博士号、マウントホリヨーク大学名誉法学博士号(アメリカ)、シートンホール大学名誉文学博士号(アメリカ)、サンマルコス国立大学名誉博士号(ペルー)、フェデリーコ・ビアレアール国立大学名誉博士号(ペルー)、翰林大学名誉医学博士号(韓国)、ブリティッシュ・コロンビア大学名誉文学博士号(カナダ)、同志社大学名誉文化博士号、国士舘大学名誉博士号、立命館アジア太平洋大学名誉博士号等、内外の大学より名誉学位を授与されました。
海外でも茶道文化による国際文化交流・親善に寄与した功労で、
芸術文化勲章コマンドール(フランス)、レジオン・ドヌール勲章オフィシエ(フランス)、ドイツ連邦共和国一等功労十字章、獅子勲章コマンダー一等章(フィンランド)、サンフランシスコ科学芸術功労賞(ブラジル)、クルゼイド・ド・ヌル勲章(ブラジル)、グラン・オフィシャル勲章(ペルー)、勲三等白象章(タイ)、ディレクナポーン勲章(タイ)等、各国より多数の勲章を受章しました。
又、京都市名誉市民、小松市名誉市民、世界の都市の名誉州民・市民となっています。
茶道界のトップリーダーとして文化の継承に貢献するだけでなく、国際的な広い視野で「一碗からピースフルネス」という茶道を通じた平和理念を提唱し、茶道文化の発展と世界平和の希求に向けた活動を展開しています。
裏千家16代 坐忘斎宗室 1956(昭和31)年生
裏千家16代坐忘斎宗室は裏千家15代鵬雲斎宗室の長男として生まれました。
幼名を政之、名を宗之・宗室、号を坐忘斎といいます。
同志社大学文学部心理学科を卒業しました。
1982(昭和57)年、大徳寺513世猷山祖順より 安名「玄黙宗之居士」、斎号「坐忘斎」を授かりました。
2002(平成14)年、裏千家16代家元を襲名しました。
現在、若い茶道人の育成と茶道文化を明確化する為に力を注いでいます。
財団法人今日庵理事、社団法人茶道裏千家淡交会名誉会長、臨済宗妙心寺派虚心庵住職、
学校法人裏千家学園茶道専門学校理事・校長、財団法人平安建都1200年記念協会常任理事、
社団法人日本青年会議所常任理事・近畿地区協議会会長、社団法人京都青年会議所理事、
総理府国際青年年事業推進会議普及委員会副委員長、京都芸術センター館長、
財団法人京都府国際センター理事、京都NPOセンター副理事、日本感情心理学会理事、
社団法人日本心理学会認定心理士、日本文芸家協会会員、日本ペンクラブ会員、
京都造形芸術大学歴史遺産学科教授、同志社大学経済学部客員教授、
学習院女子大学客員教授、中国・南開大学客員教授、北京外国語大学客員教授、
立命館大学父母後援会会長等の要職を歴任しました。