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 天平堂

朝鮮古美術

Korean Antique

朝鮮古美術

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李朝(李氏朝鮮)

李朝とは1392年に李成桂が朝鮮半島に建国した朝鮮最後の統一王朝です。
朝鮮の国号は李成桂が明国王に認知を求め、1393年に採択した経緯があります。
「李朝」の呼称は通称にすぎませんが、
日本ではこの通称が定着して長く用いられています。
漢城(現:ソウル)を首都とし、
政治理念を儒教において絶対的な社会性としました。
国教である儒教の精神は人々の生活の規範として深く浸透し、
現世の実質的生活を尊び、清廉潔白を崇め、醇朴で倹素な気風を養う事が理念とされます。
節用を重んじた体制下では遂に色絵が焼成される事はありませんでした。
このように李朝では高麗時代の仏教が衰え、抑仏崇儒政策が急速に推し進められました。
「白」は神聖と簡素を旨とする清浄無垢な色彩であり、
祭器においても白磁が用いられました。
祭器は李朝全期を通して盛んに焼成されましたが、
儒教が人々の心の奥にまで浸透してきた李朝中期は特に注目されています。
李朝前期の体制に従う為だけの儀式も李朝中期には精神の拠り所として根付いていきます。
李朝前期における祭器の使用は社会の上層部だけに限られていましたが、
李朝中期以降は一般庶民も儀式に従って先祖の霊を祭る習慣が生活の中心を占めてきます。
こうして国全体における祭器の需要は膨大なものとなり、
増加の傾向を辿っていきました。
日清戦争(1894~1895)後の1897年に国号を「大韓」と改称しました。
日露戦争(1904~1905)後は日本の保護国となり、
1910年の韓国併合で滅亡しました。


三島

三島とは象嵌文様のある粉青沙器です。
「三島」という名称の由来には、
象嵌文様が三嶋大社(静岡県)の三嶋暦の字配りに似る事に因んで名付けたとの説が有力で、
三島(現:巨文島)を経由して請来された事に因んで名付けたとする説も知られています。
高麗時代に隆盛した象嵌青磁が徐々に衰退し、
1392年に李成桂が李氏朝鮮を建国した後の新時代を反映するかのように、
15世紀に象嵌技法を駆使した作風に転化しました。
素地が生乾きの軟らかい間に陰刻や印花で文様を施して白土を埋め込みます。
鉄分を多く含んだ素地に表現された白象嵌は釉薬を通して雅味が感じられ、
慎ましいながらにも華やいだ静かなる品格を備えています。
侘び茶が隆盛した室町~桃山時代には茶の湯に取り上げられ、
唐物茶碗の硬質さと異なった持ち味は以後の茶の湯の世界に新しい展開を促しました。
文様や技法によって暦手、花三島、礼賓三島、彫三島、刷毛三島、御本三島等に分類され、
その無垢な味わいや温かみは日本の茶人に愛玩されてきました。
主たる茶碗の一つとして「写し」も繰り返し手掛けられています。


鶏龍山

鶏龍山とは韓国忠清南道にある名峰で山麓には多くの古窯跡が散在しています。
ここで灰色の胎土に白化粧を施して、
自由闊達な筆法で鉄絵文様を描いた粉青沙器が発見された事から、
この一群は「鶏龍山」と呼び慣わされて世界的にも高い声価を得ています。
15~16世紀を中心に韓国忠清南道公州市反浦面鶴峰里で焼成されました。


刷毛目

刷毛目とは鉄分の多い素地に刷毛で白泥を施し、
透明釉を掛けて焼成した粉青沙器です。
粗雑な素地を白磁のように美しく見せようと白化粧を行う際、
白泥の中にどっぷりと浸し掛けにすると水気が回って壊れ易くなる為、
刷毛で塗る方法が取られた事に始まったという説や、
作業工程を簡略化したという説等も知られています。
日本に将来された粉青沙器の刷毛目茶碗は茶人間で珍重されました。
時代や装飾上の特徴から様々な名称が与えられ、
和物茶碗においても意匠化されました。
茶碗では平たい端反りの器形が多く見られます。


無地刷毛目

無地刷毛目とは鉄分の多い素地に見込みから外側の裾にまで白泥を施し、
総体に透明釉を掛けて焼成した粉青沙器です。
白泥は粉引と同様に浸し掛けされており、
刷毛を用いていないところから名付けられました。


粉引

粉引(粉吹)とは鉄分の多い素地に白泥を浸し掛けし、
総体に透明釉を掛けて焼成した粉青沙器です。
無地刷毛目とは異なり、
高台やその周辺も含めて全面が白泥で覆われています。
表面の柔和な釉調があたかも粉を引いた(吹いた)様に見える事からの名称です。
永年の使用によって生じた「雨漏」と呼ばれる染みや、
白泥が切れて素地が現れた「火間」が見所の一つとされています。
茶碗、お預け徳利、ぐい呑みは垂涎の的として珍重されています。
15~16世紀を中心に焼成されました。


井戸茶碗

井戸茶碗とは高麗茶碗の一種です。
作行の相違から「大井戸」、「小井戸」、「青井戸」、「小貫入」等に区別されており、
井戸に準ずる一連の高麗茶碗は「井戸脇」と呼ばれています。
名称の由来については人物名や地名等の様々な諸説がありますが、
他の高麗茶碗と同様に定かではありません。
見所は大振りで腰の張った椀形、胴にめぐる轆轤目、深い見込み、溶着を防ぐ為の目跡、
高い竹節高台、高台内に立った兜巾、貫入の見られる枇杷色の釉薬、
高台回りに釉薬が結露のように集まって生じた梅花皮等ですが、
これらの諸条件を全て備えた茶碗は少ないです。
焼成された窯の所在や年代等の確証は定かではありませんが、
16世紀頃に慶尚南道付近の民窯で焼成された物と推測されています。
「一井戸、二楽、三唐津」と謳われるように高麗茶碗の最高位とされており、
古くから賞翫されてきた為か日本に伝来する井戸茶碗の数は比較的多いです。
村田珠光や千利休によって侘び茶が大成される中で高麗茶碗の受容は進んでいきますが、
中でも井戸茶碗は室町~桃山時代にかけて日本に請来され、
無作為の姿形や景色が侘びの茶風に適うものとして格別の存在になっていきました。
大らかで枯淡な美を見出して茶の湯に取り上げた茶人達の見立ての眼力や執着には、
並々ならぬものがありました。
16世紀末の天正年間末期には既に天下一の評価を受けていたとされ、
それだけに大名家の所蔵品に帰する物も多く、
所有者の名前を銘とする井戸茶碗が多いのも頷けます。

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