朝鮮古美術
Korean Antique
朝鮮古美術
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李朝
李氏朝鮮は1392年に李成桂が朝鮮半島に建国した最後の統一王朝です。
国号「朝鮮」は1393年に明の皇帝から正式に認可されたものであり、
日本では「李朝」の呼称が広く定着しています。
高麗時代の仏教が衰退し、儒教を重んじる政策が推進されると、
儒教の精神は人々の生活規範として深く根付きました。
清廉潔白を尊び、醇朴で倹素な気風を育む事が理想とされる価値観は社会全体に浸透していきます。
儒教の普及に伴い、祭祀は宮廷のみならず、庶民の間でも盛大に行われるようになり、
「白」は神聖と簡素を象徴する清浄無垢の色として、祭器においても白磁が殊に珍重されました。
白磁を基盤に、染付、鉄砂、辰砂等の装飾技法が発展しましたが、
節用を重んじる体制下において、色絵の焼成は最後まで行われる事はありませんでした。
近代に入り、日清戦争(1894-1895)を経て、1897年には国号を「大韓」と改称しました。
日露戦争(1904-1905)後には日本の保護国となり、
1910年の韓国併合によって王朝は終焉を迎えました。
李朝陶磁への深い理解と愛情で、その美を広く社会に認識させたのは、浅川伯教と巧の兄弟であり、
その導きによって心を傾けていったのが、民藝運動の中心人物・柳宗悦です。
彼らの眼差しは、李朝の器に宿る精神性と美意識を見出し、
日本における朝鮮陶磁の評価を促しました。
李朝後期 18世紀後半(1752年)-19世紀
1752年に李朝最後の官窯は金沙里窯から分院里窯に移設されました。
以後、1883年に分院里窯が官窯から民窯に移管されるまでの約130年間を李朝後期と区分します。
広州各地に設置されてきた官窯の中でも、分院里窯は漢江に最も近い地点に置かれ、
資材や製品の運搬における利便性が重視された事が窺えます。
この時期、中国からのコバルト顔料の輸入が潤沢となり、染付磁器の生産は隆盛を極めました。
時代の推移と共に染付の発色は次第に濃くなり、筆致も太く変化していきます。
文様には十長生、蓮花、牡丹、鶴、蝙蝠、文字等、多様な吉祥図案が用いられました。
染付の増加に伴い、鉄砂の使用は減少し、代わって鮮やかな紅色を呈した辰砂が台頭します。
分院里窯の初期には、金沙里窯と見紛う程の優美な作品も見られましたが、
時代が下るに連れて国力は疲弊し、素地、成形、文様の何れも次第に俗化していきました。
官窯の固定化による安定した制作環境は、漢江という大水路の恩恵によるものであり、
同時に地元資材のみでは需要に応じきれなくなった生産量の拡大を物語っています。
この頃の分院里窯は、宮中御器の供給機関であると同時に、
経済の発展に伴う旺盛な民間需要にも応える必要がありました。
寧ろ、御器以上に一般顧客向けの製品が重視されていたとも伝えられています。
分院里窯では、優れた技術で祭器から日常使いの器物に至るまで多様な器種が焼成されましたが、
特に水滴や筆筒等の文房具において、その特色が最も顕著に表れています。
文人達が競って求めた様子は、文献や優品の遺例からも明らかです。
器壁が厚くなった事により、皿や壷では底部が内側に深く抉られた造形が多く見られるようになります。
19世紀後半には、アメリカ、フランス、日本等の外国勢力による侵略が相次ぎ、国政は混乱を極めます。
1883年に分院里窯は遂に民営化され、約500年に及ぶ官窯の栄光の歴史に幕を閉じました。
民営化以降(李朝末期)には、粗質化が進み、極度に堕落した様相を呈するようになります。
白磁は灰色を帯び、染付は更に発色が濃くなり、紫色を呈する例も多く見られます。


李朝白磁
温和な表情に静寂な雰囲気を漂わせる李朝白磁は東洋陶磁の極地です。
朝鮮王朝の為政者は白磁への関心が強く、
王家や官庁の御器にも清廉潔白を尊ぶ儒教精神と共に深く根付いていきました。
「白衣民族」として清楚で慈愛に満ちた美しい白色を愛し、
硬い灰白色、失透性の乳白色、青白色、千差万別の白に多様性があります。


井戸茶碗
井戸茶碗とは高麗茶碗の一種です。
作行の相違から「大井戸」、「小井戸」、「青井戸」、「小貫入」等に区別されており、
井戸に準ずる一連の高麗茶碗は「井戸脇」と呼ばれています。
名称の由来については人物名や地名等の様々な諸説がありますが、
他の高麗茶碗と同様に定かではありません。
見所は大振りで腰の張った椀形、胴にめぐる轆轤目、深い見込み、溶着を防ぐ為の目跡、
高い竹節高台、高台内に立った兜巾、貫入の見られる枇杷色の釉薬、
高台回りに釉薬が結露のように集まって生じた梅花皮等ですが、
これらの諸条件を全て備えた茶碗は少ないです。
焼成された窯の所在や年代等の確証は定かではありませんが、
16世紀頃に慶尚南道付近の民窯で焼成された物と推測されています。
「一井戸、二楽、三唐津」と謳われるように高麗茶碗の最高位とされており、
古くから賞翫されてきた為か日本に伝来する井戸茶碗の数は比較的多いです。
村田珠光や千利休によって侘び茶が大成される中で高麗茶碗の受容は進んでいきますが、
中でも井戸茶碗は室町~桃山時代にかけて日本に請来され、
無作為の姿形や景色が侘びの茶風に適うものとして格別の存在になっていきました。
大らかで枯淡な美を見出して茶の湯に取り上げた茶人達の見立ての眼力や執着には、
並々ならぬものがありました。
16世紀末の天正年間末期には既に天下一の評価を受けていたとされ、
それだけに大名家の所蔵品に帰する物も多く、
所有者の名前を銘とする井戸茶碗が多いのも頷けます。


鶏龍山
鶏龍山とは韓国忠清南道にある名峰で山麓には多くの古窯跡が散在しています。
ここで灰色の胎土に白化粧を施して、
自由闊達な筆法で鉄絵文様を描いた粉青沙器が発見された事から、
この一群は「鶏龍山」と呼び慣わされて世界的にも高い声価を得ています。
15~16世紀を中心に韓国忠清南道公州市反浦面鶴峰里で焼成されました。


粉引
粉引(粉吹)とは鉄分の多い素地に白泥を浸し掛け、総体に透明釉を掛けて焼成した粉青沙器です。
15-16世紀を中心に焼成されました。
無地刷毛目とは異なり、高台やその周辺も含めて全面が白泥で覆われており、
表面の柔和な釉調があたかも粉を引いた(吹いた)様に見える事からの名称です。
永年使用によって生じた「雨漏」と呼ばれる独特の染みや斑は日本において賞玩されており、
白泥が切れて素地が現れた「火間」は見所の一つです。
茶碗、お預け徳利、ぐい呑みは垂涎の的として珍重されています。
「三好(三井記念美術館所蔵)」、「松平(畠山記念館所蔵)」、「楚白(石川県立美術館所蔵)」は、
名碗として名高いです。


三島
三島とは象嵌文様のある粉青沙器です。
「三島」という名称の由来には、
象嵌文様が三嶋大社(静岡県)の三嶋暦の字配りに似る事に因んで名付けたとの説が有力で、
三島(現:巨文島)を経由して請来された事に因んで名付けたとする説も知られています。
高麗時代に隆盛した象嵌青磁が徐々に衰退し、
1392年に李成桂が李氏朝鮮を建国した後の新時代を反映するかのように、
15世紀に象嵌技法を駆使した作風に転化しました。
素地が生乾きの軟らかい間に陰刻や印花で文様を施して白土を埋め込みます。
鉄分を多く含んだ素地に表現された白象嵌は釉薬を通して雅味が感じられ、
慎ましいながらにも華やいだ静かなる品格を備えています。
侘び茶が隆盛した室町~桃山時代には茶の湯に取り上げられ、
唐物茶碗の硬質さと異なった持ち味は以後の茶の湯の世界に新しい展開を促しました。
文様や技法によって暦手、花三島、礼賓三島、彫三島、刷毛三島、御本三島等に分類され、
その無垢な味わいや温かみは日本の茶人に愛玩されてきました。
主たる茶碗の一つとして「写し」も繰り返し手掛けられています。


刷毛目
刷毛目とは鉄分の多い素地に刷毛で白泥を施し、透明釉を掛けて焼成した粉青沙器です。
粗雑な素地を白磁のように美しく見せようと白化粧を行う際、
白泥の中にどっぷりと浸し掛けにすると水気が回って壊れ易くなる為、
刷毛で塗る方法が取られた事に始まったという説や、
作業工程を簡略化したという説等も知られています。
日本に将来された粉青沙器の刷毛目茶碗は茶人間で珍重されました。
時代や装飾上の特徴から様々な名称が与えられ、和物茶碗においても意匠化されました。
茶碗では平たい端反りの器形が多く見られます。


無地刷毛目
無地刷毛目とは鉄分の多い灰色の素地に見込みから外側の裾にまで白泥を施し、
総体に透明釉を掛けて焼成した粉青沙器です。
白泥は粉引と同様に浸し掛けされており、刷毛を用いていないところから名付けられました。
全羅南道務安郡で多く焼成された事から「務安粉引」とも称されています。







