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 天平堂

柿右衛門様式

Kakiemon

肥前磁器

https://tenpyodo.com/product1/cat/imari-nabeshima/(取扱商品一覧 ⇒ 伊万里・鍋島)


初期色絵

初期色絵とは寛文年間(1661~73)を中心に焼成された最初期の輸出用色絵磁器です。
古九谷様式と柿右衛門様式をブリッジする過渡的な作品として位置付けされています。
柿右衛門様式に近い作風のものは「初期柿右衛門」とも呼ばれています。
現存する作品はV.O.C(オランダ東インド会社)により欧州や東南アジアへ伝世した物が主で、
輸出総数は後世の輸出用古伊万里に比べると極めて少ないです。
この時期の色絵は中国・明時代の色絵磁器の影響を強く受けており、
中国磁器の模倣に始まった有田磁器は輸出の始まりと共に和様化していきました。


柿右衛門様式

柿右衛門様式とは延宝年間(1673-81)頃を中心に焼成された伊万里焼の様式です。
柿右衛門家のみで造られた独占的な作品郡ではなく、
V.O.C(オランダ東インド会社)からの大量注文を受けて、
肥前有田の窯々で輸出用に完成された作品群として「様式」の語が付され、
広義の柿右衛門として認識されています。
絵師の手による余白を活かした繊細な絵付け、精緻を極めた作行は優雅で気品高い美を湛え、
欧州の王侯貴族を魅了する高級磁器として、V.O.Cの積荷の中でも特に根強い人気を博しました。
中でも「濁手(にごしで)」と呼ばれる乳白色の柔和な素地は、色絵の鮮麗さを際立たせ、
後のマイセンやシャンティイにおける欧州磁器の焼成に大きな影響を与えました。
銘款には、渦を巻くように意匠化された「福」字が特徴的な「渦福」が多く見られ、
他にも「金」や「古人(いにしえびと)」等、上手の優品に用いられるものも存在します。
江戸時代に輸出された古伊万里も豪華絢爛な美を示しましたが、
特に人々の関心を集めたのは、やはり柿右衛門様式の作品でした。
戦後には、欧州に渡った作品群が次々と買い戻され、大量に里帰りを果たしましたが、
その輸出総数は国内の伝世品を大きく凌駕しており、
柿右衛門様式が輸出を目的として開発された事を物語っています。
尚、古伊万里と柿右衛門様式の判別が難しい作品は「柿右衛門手」と呼ばれ、
近年では、時代や作風が下がる作品にも「柿右衛門」の語が広く用いられる傾向があります。

柿右衛門様式-1
柿右衛門様式-2

濁手(にごしで)

柿右衛門様式の最盛期を象徴する技法として知られる「濁手(にごしで)」は、
佐賀地方の方言で「米の研ぎ汁」を意味する「濁」に由来し、
その名の通り、温かみのある乳白色の素地を特徴とします。
海外では「Milky-White」と称され、
色絵の鮮麗さを際立たせる理想的な白磁として高く評価されました。
濁手は白磁や染付の素地のように青みを帯びず、
絵師の筆による余白を活かした文様が柔和な素地と調和する事で、
柿右衛門様式ならではの優雅な色彩美を生み出します。
この素地を得るには、陶石や釉薬の原料から鉄分を始めとする不純物を丹念に取り除き、
極めて薄く釉薬を施す必要があり、染付との併用は原則として行われません。
酒井田家に伝わる1690(元禄3)年の「土合帳」には、濁手素地の調合比として、
泉山、白川、岩谷川内の陶石を6:3:1の割合で用いた記録が残されています。
焼成時の収縮率の違いによる破損も多く、皿等の平物では約五割、
壺等の立体物では約二割しか成功しなかったとされ、
この歩留まりの悪さも濁手が途絶えた要因の一つと考えられています。
濁手は欧州への輸出を目的として開発された至高の技術であり、
柿右衛門様式における最高品質の白磁素地として確立されました。
延宝年間(1673-81)に最盛期を迎え、
南川原窯ノ辻窯で最上手の典型作が焼成された可能性が高いとされています。
1650年代には楠木谷窯にて色絵専用素地の試作が始まっていた事も窺えますが、
当初は成形の粗さや微量の鉄分が残る等、完成には至っていませんでした。
18世紀以降は磁器輸出の減少と共に、濁手も姿を消しましたが、
1953(昭和28)年に12代と13代酒井田柿右衛門氏によって濁手の復興が果たされました。
濁手の呼称はいつ頃から使用され始めたのかは判然としていませんが、
江戸時代の文献には見られない事からも、近代(昭和初期)以降の呼称と考えられています。

濁手-1
濁手-2

オランダ東インド会社(Verenigde Oostindische Compagnie)との輸出産業時代

東インド会社とは17世紀に欧州諸国が東洋貿易の為に設立した特許会社で、
イギリスは1600年、オランダは1602年、フランスは1604年に設立されました。
「V.O.C(Verenigde Oostindische Compagnie)」の頭文字を合わせたモノグラムは社章であり、
会社所属を示す為に倉庫、貨幣、大砲、旗、陶磁器等に入れられました。
同社は本来の目的である香辛料の他に、
欧州で生産する事ができなかった磁器に価値を見出して中国貿易を行いました。
中国から輸入される硬質磁器は「白い金(White Gold)」と呼ばれ、
金に匹敵する価値のある貴重品として取引されました。
贅沢品で所有者のシンボルともいえる膨大な量の磁器が欧州へ齎されると、
その美しさは欧州人に深い感銘を与えて磁器焼造を促す要因となります。
しかし、1640年代の明・清王朝交代に伴う内乱や海外貿易の制限政策を起因とし、
景徳鎮窯を始めとした磁器窯が乱調になって買い付けが殆ど不可能になった結果、
安定期に入っていた日本磁器に代替的な供給が求められました。
1653(承応2)年に日本はV.O.C(オランダ東インド会社)と伊万里焼の輸出契約を結び、
1659(万治2)年に約56,700個という大量注文を受け、
日本にも華やかな輸出産業時代が訪れる事になります。
近世の胎動がようやく治まって新しい幕藩体制が整い始める中、
伊万里焼は佐賀藩鍋島家の殖産品として国際的マーケットで脚光を浴びる事になりました。
発注の際に見本(中国磁器)を示された結果、
初期の輸出磁器には芙蓉手等を始めとする明時代末期の中国磁器を写した作品が多いです。
V.O.Cの大量注文によって肥前有田では著しい技術進歩を遂げ、
窯の規模も拡大された事で大型の沈香壷も数多く焼成できるようになりました。
輸出された磁器の形状は多種多様で、
伊万里焼が大きな繁栄を迎える事ができたのは明らかにV.O.Cによる貿易恩恵です。
1684(貞享元)年に清王朝が遷界令を解除して中国磁器の輸出が再開されると、
1712(正徳2)年頃から活況を呈し、
中国磁器は再び市場での支配的地位を回復していきます。
こうして質と量と低価格の市場競争で伊万里焼は敗れました。
V.O.Cとの貿易で輸出された磁器の総計数も圧倒的に日本より中国が上回っています。
1710(宝永7)年に欧州初となる磁器窯・マイセンが設立された事も要因の一つとして、
アジアからの磁器輸出は次第に減少の一途を辿ります。
1757(宝暦7)年には僅か300個を最後に公的な日本の磁器取引が終了し、
以後は商館私貿易に委ねられました。


オランダ東インド会社(Verenigde Oostindische Compagnie)との関連事項

  • 1602(慶長7) 年 オランダ東インド会社(V.O.C)が設立されました。
  • 1609(慶長14)年 平戸にオランダ商館が設置されました。
  • 1641(寛永18)年 長崎・出島にオランダ商館が移転されました。
  • 1644(寛永21)年 1640年頃より中国からV.O.Cへの磁器輸出が減少し、
    この年をもって終わりを告げたとされています。
  • 1650(慶安3) 年 中国に代わって初めて日本から磁器が輸出されました。
  • 1651(慶安4) 年 オランダ商人に加えて中国商人も伊万里焼の積み出しを開始し、
    伊万里焼はオランダと中国に同じくして買い付けられました。
  • 1653(承応2) 年 V.O.Cと伊万里焼の輸出契約を結び、
    貿易記録として知られている磁器輸出が開始されます。
  • 1659(万治2) 年 V.O.Cから伊万里焼の大量注文(約56,700個)を受け、
    芙蓉手等を始めとする染付磁器が本格的に輸出されました。
  • 1661(寛文元) 年 清王朝は遷界令を公布し、中国磁器の輸出が停止しました。
  • 1684(貞享元) 年 清王朝は遷界令を解除し、中国磁器の輸出が再開されました。
  • 1710(宝永7) 年 ドイツ・マイセンに磁器工場が設立されました。
  • 正徳年間(1711~16)頃に幕府は貿易制限を強化し、
    出島に来航するオランダ・中国船の数を約半分に減少させました。
    こうして磁器輸出も衰退の意図を辿っていきます。
  • 1725(享保10)年 この頃からV.O.Cによる日本との貿易が停滞しました。
  • 1757(宝暦7) 年 V.O.C記録では僅か300個を最後に公的な磁器取引が終了し、
    以後は商館私貿易に委ねられます。
  • 1799(寛政10)年 V.O.Cが解散しました。

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