大徳寺
Daitoku-ji Temple
大徳寺
大徳寺とは京都府京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大本山です。
山号を竜宝山(龍寶山)といい、開山は宗峰妙超(大燈国師)です。
1315(正和4)年、宗峰が赤松則村の帰依を受け、紫野に小堂を建立したのが大徳寺の起源とされます。
1325(正中2)年、花園上皇の院宣、後醍醐天皇の綸旨が下され、大徳寺は両皇統の祈願所となりました。
1326(嘉暦元)年、勅使を迎えて開堂儀式を挙行し、寺地や寺領が相次いで寄進され、寺基が確立されました。
1333(元弘3・正慶2)年に朝廷より宗峰門徒の一流相承が認められると共に五山に列せられ、
1334(建武元)年には南禅寺と同格の五山第一位と寺格が定められました。
建武の新政が瓦解し、足利政権が成立すると、
後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺の寺格も十刹第九位に落とされ、
1431(永享3)年に十刹からの辞退を願い出る事になります。
1453(享徳2)年の火災で諸堂を始めて焼失し、応仁の乱(1467~77)で再び罹災しましたが、
一休宗純が堺の豪商達の協力を得て復興させました。
侘び茶を創始した村田珠光が一休に参禅して以後、
武野紹鷗、千利休、小堀遠州を始めとする多くの茶人が大徳寺と深い関係を持っています。
応仁の乱後に五山派寺院が衰退する中、
大徳寺は独自の禅風を保持して新興武将や商人の帰依を受けて発展しました。
1582(天正10)年には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を行い、
菩提寺となる総見院を創建しました。
その後、秀吉や有力武将により塔頭が次々に新設され、境内が飛躍的に拡大しました。
1589(天正17)年に三門が完成して以降は本坊伽藍の整備も次第に進展し、
1636(寛永13)年の宗峰三百回忌を機に仏殿と法堂の兼用を取り止めて法堂を新築しました。
1665(寛文5)年、仏殿を造替し、現在の伽藍景観が成立しました。
1627(寛永4)年の紫衣事件で沢庵宗彭が流罪となる圧迫を受けましたが、
3代将軍・徳川家光が沢庵に帰依した事もあり、幕府との関係も後に回復しました。
明治維新後は多くの塔頭が廃絶して建築や什器を失いましたが、
現在も別院2院と塔頭22院を有し、其々に貴重な建築、庭園、文化財が残されています。
大徳寺156世 江月宗玩 1574(天正2)年~1643(寛永20)年
大徳寺156世江月宗玩は津田宗及の次男として生まれました。
法諱を宗玩、道号を江月、自号を欠伸子・懜(慒)袋子・赫々子、
勅賜号を大梁興宗禅師といいます。
幼少より大徳寺111世春屋宗園に師事し、
15歳で剃髪して「宗玩」を名乗りました。
筑前国福岡藩初代藩主・黒田長政の外護を受け、
博多・崇福寺の復興に協力しました。
1606(慶長11)年、長政の請により龍光院を建立しました。
1610(慶長15)年、大徳寺156世住職に就任しました。
1611(慶長16)年に春屋宗園の逝去により、
大徳寺塔頭・龍光院を継いで、「江月」と号しました。
1612(慶長17)年、小堀遠州の請により龍光院内に孤篷庵を建立しました。
紫衣事件では大徳寺147世玉室宗珀や大徳寺153世澤庵宗彭と幕府に抗弁しますが、
一人許されて配流の澤庵や玉室の赦免に尽力しました。
孤篷庵や寸松庵の開祖で松花堂昭乗とも親交がありました。
茶の湯を父や遠州に学んで解した点では澤庵以上のものがあり、
当代一流の文化人として墨蹟は澤庵や大徳寺170世清巌宗渭と共に人気を博しました。
門下に安室宗閑、大徳寺181世江雪宗立、大徳寺184世江雲宗龍、大徳寺195世翠巌宗珉、
黒田庄兵衛達が知られます。
父より伝来の名物道具を龍光院に伝えました。
大徳寺181世 江雪宗立 1595(文禄4)年~1666(寛文6)年
大徳寺181世江雪宗立は堺に生まれました。
法諱を宗立、道号を江雪、号を破鞋子・枯髏子・不如無・不如子、勅賜号を大綱智海禅師といいます。
沢庵宗彭に随侍し、更に江月宗玩の法を嗣ぎ、竜光院第一頭を務めました。
1644(寛永21)年、大徳寺181世住持に就任しました。
山内に「看松院」を開創しました。
1647(正保4)年、初代秋月藩主の黒田長興(ながおき)公に招かれ、「古心寺」を開山しました。
1651(慶安4)年、東海寺輪番職に就任しました。
更に南宗寺16世住持を就任し、
1656(明暦2)年に十境と諸堂の名を定め、題書を執筆しています。
大徳寺184世 江雲宗龍 1599(慶長4)年~1679(延宝7)年
大徳寺184世江雲宗龍は小堀遠州の甥(一説に子とも)として山城国に生まれました。
法諱を宗龍、道号を江雲、号を任運子・ノヘ子・罔両子・之乎者、勅諡号を円慧霊通禅師といいます。
遠州と親しかった孤篷庵の開山・江月宗玩に師事し、
大徳寺塔頭・孤篷庵1世住持、
1648(慶安元)年に大徳寺184世住持に就任しました。
大徳寺塔頭・龍光院、東海寺輪番、近江孤篷庵、近江・西光寺、筑前・崇福寺住持を務め、
当代の文化人と交友を深めました。
千宗旦は四男・仙叟宗室を前田家へ仕官する為に江雲和尚を通じ、
遠州の弟・佐馬助正春に働きかけた事も『元伯宗旦文書』に記されています。
大徳寺273世 大心義統 1657(明暦3)年~1730(享保15)年
大徳寺273世大心義統は京都に生まれました。
俗姓を下村、法諱を義統、道号を大心、
号を蓮華童子・巨妙子・小心子・金剛童・蓮華庵といいます。
大徳寺218世天倫宗忽に師事し、
門下に表千家6代覚々斎宗左や裏千家6代泰叟宗室が知られています。
1706(宝永3)年、大徳寺273世住職に就任しました。
考証学者として知られており、
著作に『正燈世譜』、『宝山外志』、『諸宗儀範』、『東海遺珠』、『黒業油薪』等があります。
大徳寺418世 宙宝宗宇 1760(宝暦10)年~1838(天保9)年
大徳寺418世宙宝宗宇は京都に生れました。
法諱を宗宇、道号を宙宝、号を洛陽人・一獃・松月老人・松月叟・破睡、
勅賜号を大光真照禅師といいます。
大徳寺416世則道宗軌に師事しました。
1807(文化4)年、大徳寺418世住職に就任しました。
次いで大徳寺塔頭・芳春院13世住職、東海寺輪番に就任しました。
晩年は芳春院内に松月庵を営み、これに退隠して茶の湯三昧を楽しみました。
1836(天保7)年、仁孝天皇より大光真照禅師の号を賜りました。
近世後期大徳寺を代表する能書家として詩偈や書に優れ、
「歴代住持中の名筆」とも称されて遺墨も多く伝来しています。
大徳寺435世 大綱宗彦 1772(安永元)年~1860(安政7)年
大徳寺435世大綱宗彦は京都に生まれました。
法諱を宗彦、道号を大綱、号を空華室・昨夢・向春庵といいます。
大徳寺409世融谷宗通に師事し、
1820(文政3)年に大徳寺435世住持に就任しました。
裏千家11代玄々斎宗室、表千家10代吸江斎宗左、武者小路千家7代以心斎宗守、
松村宗悦達と親交がありました。
茶の湯に造詣が深く、文芸に秀でた事から懐紙や短冊を始めとした遺墨も多いです。
大徳寺塔頭・黄梅院14世住持を務めました。
日記『空華室日記』や和歌集『大綱遺詠』等が知られています。
大徳寺503世 瑞巌宗碩 1879(明治12)年~1965(昭和40)年
大徳寺503世瑞巌宗碩は岐阜県大垣に生れました。
姓を後藤、法諱を宗碩、道号を瑞巌、室号を蔭涼軒といいます。
荒尾の円成寺全識について得度しました。
1929(昭和4)年、円成寺住職に就任しました。
1931(昭和6)年、妙心寺塔頭・東海庵住職に就任しました。
1934(昭和9)年、臨済宗大学(現:花園大学)学長に就任しました。
1946(昭和21)年、妙心寺615世住職に就任しました。
1947(昭和22)年、大徳寺503世(大徳寺9代管長)住職に就任しました。
裏千家15代鵬雲斎宗室の名付け親としても知られています。
大徳寺511世 大亀宗雄 1899(明治32)年~2005(平成17)年
大徳寺511世 大亀宗雄は大阪府に生まれました。
姓を立花といいます。
1921(大正10)年、臨済宗大徳寺派南宗寺で得度しました。
1931(昭和6)年、大徳寺別院・徳禅寺住持に就任しました。
1953(昭和28)年、大徳寺宗務総長に就任しました。
1963(昭和38)年、大徳寺最高顧問に就任しました。
1968(昭和43)年、大徳寺511世住持に就任しました。
1972(昭和47)年、大徳寺山内に如意庵を再興しました。
1979(昭和54)年、奈良大宇陀に松源院を再建しました。
1982(昭和57)年、花園大学学長に就任しました。
池田勇人・福田赳夫両元首相や松下幸之助を始めとする政財界人とも親交がありました。
茶道の造詣が深く、指導を行った陶芸家に杉本貞光が知られています。
大徳寺512世 浩明宗然 1913(大正2)年~1995(平成)7年
大徳寺512世浩明宗然は福岡県に生まれました。
姓を浜(後に方谷)、法諱を宗然、道号を浩明、室号を桃源室といいます。
1928(昭和3)年、崇福寺の小南老師と法縁を結びました。
1929(昭和4)年、福岡県糸島・安養寺の方谷貫道について得度しました。
1939(昭和14)年、相国僧堂に掛搭しました。
相国寺の大津櫪堂に参禅して崇福寺101世住職に就任しました。
安養寺住職に就任しました。
1948(昭和23)年、花園大学講師に就任しました。
1966(昭和41)年、大徳寺512世(大徳寺12代管長)住職に就任しました。
1980(昭和55)年、瑞雲寺に閑栖しました。
大徳寺515世 誡堂宗省 1898(明治31)年~1984(昭和59)年
大徳寺515世誡堂宗省は姓を藤井といいます。
大徳寺塔頭・芳春院22世住職、大徳寺塔頭・三玄院住職を務めました。
戦後より瑞巌宗碩、歓渓紹忻、雪窓宗甫達と大徳寺復興に尽力し、
京焼陶工を指導して紫野焼復興に功績を示しました。