諏訪蘇山
Sozan Suwa
諏訪蘇山
初代 諏訪蘇山 1851(嘉永4)年~1922(大正11)年
初代諏訪蘇山は加賀藩士・諏訪重左衛門好方の長男として石川県金沢市に生まれました。
幼名を栄三郎、本名を好武、号を友山賀山、金水堂、蘇山といいます。
加賀藩の洋式武学校・壮猶館に学び、1868(明治元)年に教授役となりました。
1871(明治4)年の東京府兵の関門上役を最後に金沢に戻って軍職を辞しました。
1873(明治6)年、任田徳次(彩雲楼旭山)に陶画法を学びました。
1875(明治8)年に東京で陶画業を始め、
フェロノサと親交を結んでワグネルの講義を受ける等、幅広い知識を吸収しました。
1879(明治12)年に石川県勧業試験場の製陶助手を経て、
1880(明治13)年から1884(明治17)年まで九谷陶器会社に招かれ、
新たに人物や置物の制作を加えて社業に貢献し、「友山賀山」と号しました。
1887(明治20)年の金沢工業学校の開校から1896(明治29)年まで後進の育成に努力し、
この間に大病を患いましたが、
金沢の来教寺金比羅大明神の信仰もあって蘇生し、「蘇山」と号しました。
その機縁で同寺には「天狗面額」が奉納されています。
1896(明治29)年に福井県宮崎村の山内陶器工場(後の日渉園)、
1897(明治30)年に金沢の八木煉瓦工場で指導に当たり、
1898(明治31)年に富山県の伏木煉瓦株式会社の社長兼技術長嘱託となりましたが、
1899(明治32)年に辞職しました。
1900(明治33)年から京都で錦光山宗兵衛の窯に勤務し、
その精妙な技量を大いに発揮しました。
1907(明治40)年、独立して京都五条坂で製陶業を始めました。
1914(大正3)年に朝鮮李王家嘱託として高麗古窯の調査を行い、
再興依頼を受けて、1915(大正4)年に窯を完成させました。
1917(大正6)年、帝室技芸員となりました。
石膏型を生かした巧みな彫像や置物、精緻な透かし彫りによる花瓶類も多いですが、
その陶技の真価を発揮したのは独自の青磁であり、
長年の試行錯誤の上に南宋官窯の粉青色を見事に再現しました。
堆朱、曲輪、時計制作等の多方面にまで才能を発揮しました。
2代 諏訪蘇山 1890(明治23)年~1977(昭和52)年
2代諏訪蘇山は初代諏訪蘇山の弟・好直の次女として石川県金沢市に生まれ、
初代の養女となりました。
本名を虎子といいます。
1922(大正11)年、2代諏訪蘇山を襲名しました。
3代 諏訪蘇山 1932(昭和7)年~2005(平成17)年
3代諏訪蘇山は2代諏訪蘇山の弟・米沢蘇峰の次男として京都に生まれ、
2代の養子となりました。
本名を修といいます。
1955(昭和30)年、京都市立美術大学陶磁器科を卒業しました。
1960(昭和35)年、中村弘子と結婚しました。
1970(昭和45)年、3代諏訪蘇山を襲名しました。
1971(昭和46)年、光風会審査員に就任しました。
1976(昭和51)年、京都市美術展審査員に就任しました。
2002(平成14)年、古希を機に三女・公紀に家督を譲って隠居し、「玄心」と改名しました。
伝統的技法を基盤とし、
気品ある清澄な釉調と洗練された独自の作風を確立しています。
4代 諏訪蘇山 1970(昭和45)年生
4代諏訪蘇山は3代諏訪蘇山の三女として生まれました。
名を公紀といいます。
母は千家十職の塗師・12代中村宗哲です。
2002(平成14)年、4代諏訪蘇山を襲名しました。