斎藤秋圃
Shuho Saito
斎藤秋圃 1769(明和5)年~1859(安政6)年
斎藤秋圃は池上相常の子として生まれました。
幼名を市太郎、通称を葵臻平・葵衛・又右エ門・宗右エ門、
号を相行、韋行、双鳩、土筆翁、穐圃、周圃、準旭庵、茗圃、秋圃といいます。
円山応挙に師事した後、
兄弟子の森狙仙に師事しました。
長崎へ画事修行を志し、
安芸の厳島に3年間滞在して社頭、海辺、山中の鹿を四季折々に見逃さず描きました。
1802(享和2)年に長崎に到着し、
江稼圃が来朝していたので入門を申し入れますが、
今更他流を学ぶ必要はあるまいとの賛辞を賜ります。
秋圃の名声は筑前国秋月藩8代藩主・黒田長舒に伝わり、
1803(享和3)年に秋月藩の御抱絵師となりました。
秋月の「秋」と稼圃の「圃」を採って「秋圃」の号を賜ったといいます。
1813(文化10)年、「斎藤」姓に改姓しました。
親交の深い仙厓和尚も斎藤秋圃に師事したという説話が伝えられます。
村田東圃、石丸春牛、桑原鳳井達の画家や、
原古処、亀井昭陽、奥村玉蘭達の文化人とも深い交流がありました。
太宰府では吉嗣梅仙や萱島鶴栖といった門人を育て、
太宰府に南画家としての文化活動の基礎を造り、
梅仙は拝山、鼓山と、
鶴栖は秀山、秀峰と三大画家が其々に続きました。
こうした両家は南画家の家風を確守して太宰府文化活動の礎を築いたといえます。