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 天平堂

大田垣蓮月

Rengetsu Otagaki

大田垣蓮月 1791(寛政3)年~1875(明治8)年

大田垣蓮月は京都の尼僧、歌人、書家、陶芸家です。
名を誠、法号を蓮月といいます。
伊賀上野の藤堂氏の娘とも伝えられ、
生後すぐに京都知恩院の寺侍・大田垣伴左衛門光古の養女となりました。
8~9歳頃に亀岡城主に御殿奉公して和歌、書、長刀等の諸芸を身に付けました。
1807(文化4)年頃に大田垣家の養子・望古と結婚し、
一男二女を儲けましたが、何れも幼くして亡くなりました。
1815(文化12)年に望古と死別し、1819(文政2)年に古肥と再婚して一女を儲けましたが、
1823(文政6)年に古肥とも死別しました。
古肥の死後は剃髪して「蓮月」と号し、光古と共に知恩院の真葛庵に居住しました。
後に古肥との間の女児も亡くなり、養父の他界を機として岡崎村に移住します。
岡崎では作陶により生計を立て、
手捏ね特有の地肌に自詠の和歌を釘彫りで施した作品は「蓮月焼」と呼ばれ、
既存の京焼にはない新趣向でたちまち洛中の世評を集め、
存命中に偽作が出る程の人気を博しました。
本焼きは帯山与兵衛窯、清水六兵衛窯、弟子の黒田光良等に依頼したといい、
当時の文人趣味を反映して煎茶器、茶碗、徳利、花瓶等が残ります。
11代樂慶入や3代清水六兵衛の素地に自詠を彫った合作の茶碗も残っています。
世間の人々が好奇心を抱いて蓮月の家を訪ねる為、
住居を転々とした事から「屋越し蓮月」とも呼ばれました。
1866(慶応2)年に西賀茂の神光院に居住し、
1875(明治8)年に同所で死没しました。
蓮月は和歌添削を歌人・六人部是香に請い、晩年には上田秋成に師事し、
生涯に800首の歌を残しました。
小沢芦庵、頼三樹三郎、梁川星巌、梅田雲浜等の文人とも親交し、
富岡鉄斎を育成しました。
京都飢饉の際には私財を投げ打って寄付し、
自費で鴨川に丸太町橋を架ける等の慈善活動を勤しみました。
「貞心尼」、「加賀千代女」に並ぶ、「幕末の三大女流歌人」の一人です。


大田垣蓮月の生き様

肉親との死別を繰り返した得度後の蓮月は陋屋に住み、
美しい容姿から言い寄る男達を排する為に歯を抜いて無私の境地へ疾走したとされます。
生計を立てる為に制作を始めた焼物は洛中の世評を集めて大きな価格で取引され、
尊い命を相次いで失った蓮月は和歌や陶器を造り出すという産みの喜びを生きる力に変えます。
その貯まったお金で鴨川に今も残る丸太町橋を架けました。
蓮月の無私が最も際立ったのは江戸無血開城への提言であり、
西郷隆盛に「あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思へば」の歌を送り、
この一首が西郷を感動させたとも伝えられます。
悲痛な運命を背負いながらも無私を希求した姿勢は、
清廉高潔で誰にも真似できないオリジナリティに満ち溢れており、
まさに泥の池に咲いた美しい京の蓮です。

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