駒井音次郎
Otojiro Komai
駒井音次郎 1842(天保13)年~1917(大正6)年
駒井音次郎は肥後出身の三崎周助から肥後象嵌の技術を学んだと伝えられます。
1876(明治9)年に廃刀令が公布された事によって、
肥後象嵌の刀装金具の制作から西洋向けの置物や装飾具の制作へと変換しました。
これが外国人の間で好評を博し、
更に神戸の美術商・池田某と契約して池田合名会社との一手取引を行う事になりました。
1885(明治18)年の火災により家産を失う不遇な時期を迎えますが、
多くの外国人が作品を買い求めた事で復興を果たしました。
内外の博覧会にも積極的に作品を出品しており、
1903(明治36)年の内国勧業博覧会、
1904(明治37)年のセントルイス博覧会、
1905(明治38)年のリエージュ万国博覧会において受賞を重ねました。
1906(明治39)年、2代駒井音次郎に家督を譲って隠居し、「周亮」と名乗りました。
2代駒井音次郎も1908(明治41)年のサンクトペテルブルク、
1909(明治42)年のシアトル、
1910(明治43)年のブリュッセルとロンドン、
1913(大正2)年のウィーン等、
海外の多くの博覧会に出品しています。
1941(昭和16)年まで制作を続けましたが、戦後は真珠店に改めました。
駒井製の作品は日本を代表する金工品として海外で広く名声を博し、
多くの万国博覧会において数々の受賞を重ねました。
海外への輸出を専業としていた為、日本国内に現存する作品は少ないです。
象嵌技術には色々な種類が知られていますが、京象嵌はその殆どが布目象嵌です。