狩野安信
Yasunobu Kano
狩野安信 1613(慶長18)年~1685(貞享2)年
狩野安信は狩野孝信の三男として生まれました。
狩野探幽、狩野尚信の弟です。
幼名を雄丸、名を安信、通称を四郎次郎・源次郎(後に右京)、
号を永真・牧心斎・静閑子・了浮斎、法名を長源院日実永真といいます。
1655(明暦元)年に普門寺にいる隠元隆琦を訪ね、
隠元から法を受け、同寺の障壁画を描きました。
安信には黄檗美術の影響を受けたと思われる作品があります。
1662(寛文2)年、法眼に叙されました。
1674(延宝2)年の内裏造営では筆頭絵師にのみ描くのを許された「賢聖障子」を描き、
名実共に狩野家筆頭の地位を得ました。
狩野宗家を継ぎ、幕府の奥絵師の長を務め、
江戸中橋に屋敷を賜り、「中橋狩野家」と称しました。
兄達に劣るとする評価が広く見られましたが、
それを下手と切り捨てるのではなく、
兄達と別の方向を目指して努力で補ったとする好意的な解釈も見られます。
弟子に英一蝶、狩野昌運、狩野宗信、狩野永雲、狩野清真等が知られます。