本阿弥光悦
Koetsu Honami
本阿弥光悦 / 光甫
本阿弥光悦 1558(永禄元)年~1637(寛永14)年
本阿弥光悦は本阿弥光二の長男として生まれました。
名を二郎三郎、号を自得斎・徳友斎・太虚庵といいます。
父が加賀藩前田家に出入りした事から父の没後に200石を受け継ぎました。
本阿弥家の家業は刀剣の磨砺、浄拭、鑑定ですが、
光悦は書画、蒔絵、陶芸等の広範囲において卓越した芸術活動を展開しました。
中でも「光悦流」と呼ばれる書風は極めて独創的でありながら自由奔放で、
近衛信尹や松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」と称され、
俵屋宗達の下絵の料紙に装飾的な書体で詩歌を記して世評を集めました。
1615(元和元)年に徳川家康より鷹峯(現:京都市北区鷹峯)の地を拝領し、
鷹峯には位牌所を中心に本阿弥一族の他、
上層町衆、蒔絵師、筆師、紙師等の工匠達の屋敷が軒を並べ、
法華宗を紐帯とする芸術村(光悦村)が形成されました。
光悦は茶の湯を織田有楽や古田織部に、
樂焼を2代樂吉左衛門(常慶)や3代樂吉左衛門(道入)に学びました。
樂家には土や釉掛け等を依頼する光悦からの書状も残されており、
黒樂茶碗はほぼ全てが樂家の窯で焼成された物と考えられています。
本阿弥光甫 1601(慶長6)年~1682(天和2)年
本阿弥光甫は本阿弥光悦の孫です。
父・光瑳は光悦の養子です。
号を空中斎といいます。
光悦同様に加賀藩前田家に仕え、
光甫の代に100石を加増されて300石を賜りました。
家業である浄拭の技は祖父を超える程とも伝えられており、
1641(寛永18)年に法眼に叙せられました。
光悦の事績を中心とした『本阿弥行状記』の上巻を変遷し、
樂焼を4代樂吉左衛門(一入)に学んで名碗「寒月」を残しました。
晩年における「空中信楽」と呼ばれる作品を始めとし、
書画では三幅対「藤、牡丹、楓」が有名です。