平賀源内
Gennai Hiraga
平賀源内 1728(享保13)年~1779(安永8)年
平賀源内は讃岐国(現:香川県)に生まれました。
通称を源内(元内)、諱を国倫、字を子彝、画号を鳩渓、俳号を李山といいます。
本草学者、地質学者、蘭学者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。
戯作者としては風来山人、浄瑠璃作者としては福内鬼外、殖産事業家としては天竺浪人、
生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内といった別名でも知られました。
幼少の頃には掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ、
その評判が元で13歳から藩医に本草学や儒学を学びます。
俳諧グループに属して俳諧等も行い、
1748(寛延元)年に父が没した後は藩の蔵番となりました。
1752(宝暦2)年頃に長崎へ遊学して本草学、オランダ語、医学、油絵等を学びました。
大阪や京都でも学び、
1756(宝暦6)年には江戸で本草学者・田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、
漢学を習得する為に林家にも入門して聖堂に寄宿します。
二回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学び、
1761(宝暦11)年には伊豆で鉱床を発見して産物のブローカーも行いました。
物産博覧会を度々開催し、
この頃には幕府の老中・田沼意次にも知られるようになります。
1759(宝暦9)年には高松藩家臣として再登用されましたが、
1761(宝暦11)年に江戸に戻る為に辞職します。
この時に仕官御構(奉公構)となり、
以後は幕臣への登用を含めて他家への仕官が不可能になりました。
1762(宝暦12)年、物産会として東都薬品会を江戸の湯島にて開催しました。
江戸において知名度も上がり、
杉田玄白や中川淳庵達と交友を持ちました。
1766(明和3)年から武蔵国川越藩・秋元凉朝に招かれて秩父大滝中津川で鉱山開発を行い、
石綿等を発見しました。
現在でも奥秩父の中津峡付近には、
源内が設計して長く逗留した建物が「源内居」として残っています。
1773(安永2)年には出羽国久保田藩・佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、
秋田(久保田)藩士・小田野直武に蘭画の技法を伝えます。
1779(安永8)年に大名屋敷の修理を請け負った際、
酔って修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁二人を殺傷した事で投獄され、
孤独と失意の内で獄死しました。
寒暖計、エレキテル(摩擦起電機)、火浣布、源内焼等を考案して産業開発に貢献し、
多芸多才である事から「日本のダ・ヴィンチ」とも称されます。
夏バテ防止の為に「土用の丑の日に鰻を食べる」という風習は、
売上不振に悩んだ鰻屋に請われて源内が発案したという説が有力です。