エミール・ガレ
Emile Galle
エミール・ガレ 1846年~1904年
エミール・ガレはシャルル・ガレの長男として、フランス北東部ロレーヌ地方のナンシーに生まれました。
1864年にナンシー帝立高等中学校を卒業し、
修辞学、文学、哲学、植物学、歴史学に優れた成績を修めました。
1865年にドイツのヴァイマルに留学して文学、哲学、植物学、鉱山学を学び、
建築と装飾美術について勉学を修めました。
1866年からマイゼンタールのビュルグン・シュヴェーラー社(Burgun, Schwerer & Cie.)のガラス工場で、
ガラス製造の技術を習得しました。
1867年から陶器とクリスタルガラスの製造販売会社を営む父親の事業に正式に加わり、
商品開発、製造管理を担当します。
1870年、志願兵として普仏戦争に従軍しました。
1874年、父の会社の芸術監督に就任しました。
1875年、牧師の娘であるアンリエット・グリム(1848~1914)と結婚しました。
1877年、31歳で正式に事業を承継しました。
自然観察を通じ、草花や昆虫の造形を取り入れた革新的なスタイルを打ち出していきます。
1878年の第三回パリ万国博覧会では初めて自身の名で出展し、
ガラス部門と陶芸部門で銅メダル、庭園装飾部門に陶器を出品して銀メダルを受賞しました。
新開発の「月光色ガラス」はガレのオリジナルとして脚光を浴びました。
ソーダガラスに微量の酸化コバルトを混ぜて淡青色に着色し、
月明りのように淡く美しく光るガラスは大きな反響を呼び、
イギリスやドイツにおいても同様のガラスが造られました。
フランス国立園芸協会の会員に就任しました。
1884年、装飾美術中央連合主催の「石、建築木材、土、ガラス」展で金メダルを受賞しました。
ジュネーヴ園芸協会の名誉会員に就任しました。
1885年、レジョン・ドヌール・シュヴァリエ勲章(勲五等)を受章しました。
陶器工房とガラスのマッフル窯(ガラスの焼き戻しに使用する小型の窯)を設けました。
この頃から寄木細工の高級家具の制作にも活動範囲を広げ、
ガラス研究も色ガラス素地を幾重にも重ねる「被せガラス」へと進んでいきます。
1889年の第四回パリ万国博覧会ではガラス、陶器、家具の三部門への出品を果たし、
ガラス部門でグランプリ、陶器部門で金メダル、家具部門で銀メダルを受賞しました。
この時、ガレは過去の折衷様式から抜け出した新しい様式(アール・ヌーヴォー)を打ち立て、
グランプリの受賞によりガレ・ブランドは国際的にも確固たるものとなります。
1890年、ブリュッセル植物学博覧会委員会の名誉会員に就任しました。
1891年、ナンシー中央園芸協会の副会長に就任しました。
1894年、ナンシーに念願のガラス工場「ガレ・クリスタル製作所」を設立しました。
初めて素材の調合から仕上げまでを一貫して監督下に置き、
ガラス、陶器、家具の製造を一ヵ所でコントロールできるようになりました。
この頃から「マルケットリー」や「パチネ」といった前人未踏の高度な技法に挑みます。
一方で産業芸術家として一般への普及を目指した量産品の開発にも力を入れるようになります。
1898年、「マルケットリー」、「パチネ」の技法で特許を取得しました。
1900年、第五回パリ万国博覧会でガラス部門と家具部門でグランプリを受賞しました。
工芸を芸術の域に導いた創作家と讃えられ、名声は不動のものとなります。
1901年、ドーム兄弟達と共に「芸術産業地方同盟(ナンシー派)」を結成し、会長に就任しました。
ロレーヌ地方の工業産業の発展と後進育成に心血を注ぎます。
1902年頃より一般家庭への電気普及を背景に電球を組み込んだランプ(電気照明器具)の商品化を図ります。
1904年にガレは白血病で逝去し、補佐役であった妻のアンリエット・ガレが工場経営を引き継ぎましたが、
1914年にアンリエットは逝去し、
次女の夫であるポール・ペルドリゼ(1870~1938)が経営責任者に就任しました。
マルケットリー等の複雑高度な製法は放棄され、二層三層の被せガラスの量産品が主体となります。
製品は規格化されたものですが、安定的な品質水準を維持しました。
第一次世界大戦中(1914~1918)は一時製造を停止し、
世界大恐慌の影響を受け、1931年にガレ社は閉鎖しました。
1936年には土地建物や在庫等、全ての資産が競売で売却されました。