冷泉家

Reizei

 冷泉家は近衛中将に代々任官された羽林家の公家で御子左家(二条家)の分家です。
家名は冷泉小路に由来し、
歌道宗匠家の一つで冷泉流歌道を伝承しています。
藤原定家の孫の代で御子左家(二条家)から京極家、冷泉家が分かれて三家となりましたが、
京極家は早くに断絶し、
嫡流の二条家も室町時代に断絶しました。
冷泉家は定家の嫡流子孫ではありませんでしたが、
最終的には冷泉家のみが残る事となり、
室町時代には「上冷泉家」と「下冷泉家」に分かれました。
両家とも名門ですが、
一般的に冷泉家として知られるのは江戸時代から屋敷が移転していない上冷泉家です。
下冷泉家の屋敷は明治時代に公家町を国民公園として整備する際に取り壊されました。
上冷泉家の江戸時代における家格は羽林家で官位は概ね権大納言を極官としていましたが、
正四位下相当の役職である民部卿も兼ね、
徳川将軍家に厚遇されて繁栄しました。
明治時代になると上冷泉家の冷泉為紀は伯爵、
下冷泉家の冷泉為柔は子爵と華族に列せられました。

上冷泉家15代 冷泉為村 1712(正徳2)年~1774(安永3)年

 上冷泉家15代冷泉為村は上冷泉家14代冷泉為久の子として生まれました。
名を為村、法名を澄覚、号を三藻、法号を止静院寂源澄覚といいます。
1738(元文3)年に従三位に叙されて公卿に列し、
1744(延享元)年に参議、
1750(寛延3)年に権中納言に任じられました。
1752(宝暦2)年に従二位、
1758(宝暦8)年に正二位に叙され、
1759(宝暦9)年に権大納言に至りますが、
1760(宝暦10)年に辞しました。
1770(明和7)年、落飾しました。
1721(享保6)年、霊元上皇から古今伝授を受けました。
霊元天皇の勅点の添削を受けた折紙詠草(和歌懐紙)が存在します。
烏丸光栄、三条西公福、中院通躬に師事し、
門下に小沢蘆庵、中原広道、池大雅、涌蓮、松平輝高、柳沢保光、酒井忠徳、土屋信名、
梨木祐為、萩原宗固、宮部義正、成島和鼎、巨勢利啓、池玉蘭、柳沢吉里、
僧慈延達が知られています。
「冷泉家歴代中第一の歌人」と称され、「冷泉家中興の祖」とも仰がれています。
家集の『為村卿和歌集』を始めとし、
『為村卿月の歌』、『月下百吟』、『冷泉大納言三百首』、『重陽九十首』、
歌論書に『樵夫問答』、聞書に宮部義正筆録の『義正聞書』があります。