吉向焼

Kikko ware

初代 吉向十三軒松月(治兵衛) 1784(天明4)年~1861(文久元)年

 初代吉向治兵衛は伊予国大洲藩士・戸田源兵衛の子として生まれました。
姓を戸田(後に吉向)、名を治兵衛、通称を亀次、号を十三軒・松月・松翁・止々簷、
法名を行阿といいます。
9代樂了入、初代清水六兵衛、初代高橋道八、浅井周斎に師事しました。
京都で陶法を修め、
1804(文化元)年に大坂の十三村(現:大阪市淀川区)に開窯しました。
治兵衛には嗣子がいなかった為、
一族の亀治を呼んで甥の与右衛門を養子に迎えました。
最初は亀次の名に因んで「亀甲焼」と称しましたが、
1819(文政2)年に寺社奉行・水野忠邦の命により、
11代将軍・徳川家斉に鶴と亀の食籠等を献上して「吉向」印を拝領し、
「吉向焼」と称するようになったと伝えられます。
1818(文政元)年に伊予国大洲藩に招かれて五郎玉川の別邸で御庭焼を指導し(五郎玉川焼)、
1834(天保5)年には周防国岩国藩に招かれて2年間作陶に従事しました(岩国吉向)。
1836(天保7)年に再度岩国を訪問して個人営業の窯を焼きました(岩国山焼)。
大和小泉藩主・片桐貞信の参勤交代に伴い、
1839(天保10)年に江戸に同行して向島の江戸屋敷で御庭焼を営みました。
江戸では旗本の次男であった一朗高義を養子に迎え、
剃髪して貞信より「止々簷行阿」の法号を拝領しました。
1845(弘化2)年~1853(嘉永6)年には信濃国須坂藩に招かれ、
藩主・堀直格の紅翠軒窯で一朗と共に茶器を中心に作陶しました(須坂吉向)。
その後は美作国津山藩主・松平確堂に招かれて、
向島白鬚神社付近や牛込喜久井町の松平候別邸で御用品を作陶しました。
印銘には「吉向」、「十三軒」、「出藍」、「連珠」、「紅翠軒」、「行阿」等があり、
楽焼、交趾、染付等の陶技や意匠に優れた近世屈指の名工です。
1861(文久元)年の治兵衛没後には養子の一朗が跡(江戸吉向)を継ぎましたが、
明治中頃で閉窯となりました。
大坂吉向は治兵衛の跡を亀治が継ぎ、
1891(明治24)年の5代の時に「十三軒吉向」と「松月軒吉向」に分かれて現在に至ります。

2代 吉向十三軒松月(亀治) 1803(享和3)年~1843(天保14)年

3代 吉向十三軒松月(与右衛門) 1809(文化6)年~1863(文久3)年

4代 吉向一郎 1820(文政3)年~1863(文久3)年

 4代吉向一郎は初代吉向十三軒松月の養子です。
江戸吉向2代を襲名しました。

5代 吉向十三軒松月(治平) 1831(天保2)年~1891(明治24)年

 5代吉向十三軒松月は2代吉向十三軒松月の長男として生まれました。