原富太郎

Tomitaro Hara

原富太郎 1868(慶応4)年~1939(昭和14)年

 原富太郎は青木久衛の長男として岐阜県厚見郡佐波村(現:岐阜市柳津町)に生まれました。
号を三溪といいます。
小学校卒業後、儒学者の野村藤陰や草場船山に師事しました。
後に上京して東京専門学校(現:早稲田大学)で政治学や経済学を学び、
跡見女学校の教師に就任しました。
1892(明治25)年、横浜の豪商である原善三郎の孫・原屋寿と結婚して原家に入りました。
1899(明治32)年に善三郎の死去に伴い、横浜で一二を争う生糸商「亀屋」を継ぎ、
1900(明治33)年には原商店を「原合名会社」に改組しました。
1902(明治35)年に三井家から官営工場であった富岡製糸場を譲り受け、
近代的な事業経営を次々と展開しました。
その裏には益田鈍翁との深い交流が窺えます。
この頃から三之谷の別荘の地を本宅として造園を手掛けていき、
三之谷の地名から「三溪園」と名付け、
自らも「三溪」の号を名乗るようになりました。
1906(明治39)年、三溪園を一般公開しました。
1911(明治44)年、安田靫彦や前田青邨達の若手画家の支援を開始しました。
1915(大正4)年、帝国蚕糸の社長に就任しました。
1917(大正6)年、三溪園に「臨春閣」の移築が完了しました。
1920(大正9)年、横浜興信銀行(現:横浜銀行)の頭取に就任しました。
1923(大正12)年の関東大震災後には横浜市復興会や横浜貿易復興会の会長を務め、
私財を投じて復興に尽力しました。
三溪園は戦前より一部公開されていましたが、
戦後に原家より横浜市に譲渡され、
現在は財団法人三溪園保勝会により保存公開されています。
古美術と近代日本美術の蒐集家や新進画家のパトロンとして知られており、
自ら絵筆を執った文人や茶人であり、
日本を代表する文化人として大きな存在感を示しました。