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 天平堂

Special Preview先行紹介

鍋島染付凌霄花文皿(江戸中期)

800,000(税込)

上方から垂れ下がる凌霄花文を題材とした盛期鍋島の優品です。薄手の造形に清涼な染付が冴え渡っており、和様の格式美と献上磁器の貫禄が感じられます。破綻なく描かれた櫛高台と七宝結文は完成度を極めた精巧無比の鍋島藩窯の名に相応しい作行を示します。類似品が九州陶磁文化館に確認できます。

⇒ 佐賀県立九州陶磁文化館(外部リンク)

商品コード
240602-4
時代
江戸中期
18世紀前半
重量
401g
口径
20.0cm
高さ
5.2cm
底径
11.0cm
次第
桐箱(張込箱)
アクリル皿立て
状態
完品

洗練された造形、美しい染付、秀抜な焼き上がりと優品の条件を満たしています。

Photo Gallery

年表(肥前磁器)


鍋島焼

鍋島焼とは肥前国佐賀藩鍋島家の庇護の下、
松浦郡大川内山の鍋島藩窯で焼成された精巧で格調高い特別誂えの磁器です。
日本では唯一の官窯的性質を持ち合わせた世界に誇れる最高傑作品であり、
その技術練度は柿右衛門様式を遥かに凌ぎ、極めて高い評価を確立しています。
最上質の物は中国の御器廠(官窯)に比肩しうるといっても過言ではありません。
将軍家への献上を目的として幕藩体制における公儀権力への忠誠服従の表徴、
更に諸大名との公誼和親の証に藩外へ散布されました。
伊万里焼のように販売を目的とした物ではなく、
江戸時代を通して採算度外視で焼成している為に一般には全く市販されませんでした。
藩窯の基本姿勢であった茶陶路線は執らず、皿を中心とした実用器に焦点を当てました。
肥前地方では焼物の生産地区を「山」と呼び、
鍋島藩では御用品を焼成する窯場を「御道具山(鍋島藩窯)」と称しました。
又、「(御)留山」とは御殿様の窯場という最高の敬意を含んだ呼称です。
鍋島藩窯には肥前諸窯から最高練度の技術をもつ職人が召致され、
他窯場と離れた幽境で厳格な組織下に藩窯の作風確立が図られました。
陶工は31人、生産数は年間5,031個と幕末の記録に残っています。
尚、出入り口には関所を設けて関係者以外の通行を禁止し、
このような厳重な警戒態勢を極めていたのは藩窯秘技の漏洩を防ぐ為でした。
ここで働く職人は全て名字帯刀を許可され、一切の公課は免ぜられたと伝えられます。
有田町の中心から直線にして北に約5kmの鍋島藩窯跡へ行くには遠回で迂回せねばならず、
その行程となると8kmは十分にあり、鍋島藩窯を隔離する上で適当な距離でした。
生産は中国の御器廠に倣った各専門による分業体制で自己の最善が尽くされました。
1枚の皿といえども多数の職人の手を経ています。
運搬中の破損事故も考慮して製品は余分に造られ、
基本は20枚一組で献上された事が伝えられています。
盛期は優れた技法に裏付けされた最高峰の技術が集約されており、
染付や青磁がありますが、最も主たるものは世にいわれる「色鍋島」です。
色鍋島は染付で輪郭線を描いて赤、緑、黄の基本色で枠内に上絵付けをします。
この技法は明時代・成化年間(1465~87)の「豆彩(闘彩)」を踏襲して洗練された技術を示し、
労力を惜しまない採算度外視の御用窯だからこそ実現する事ができました。
文様の特徴は中国や朝鮮の図案影響を脱して和様の情趣を反映しているところにあり、
自然界の植物文を中心に独自の洗練された風格を持ちます。
又、山水や能衣装、桃山・江戸時代の絵手本からも画題を取り入れています。
代表的な器形は轆轤成形による「木盃形」という高い高台に特色がある皿です。
通常の有田民窯に比べて高台が高いというのは格式を演出する意味合いも考えられます。
高台の外面周囲には多くの作品に「櫛歯文」と呼ばれる特殊な模様が染付で描かれており、
当時は基本的に鍋島藩窯だけに許された技法で他窯においては厳重に禁じられました。
盛期は染付で輪郭線を描いた中に濃みを入れていく綿密な手法を執っていますが、
時代が下がるに連れてだんだん長くなって乱れ出し、
次第に簡略化された一本線で描かれるような退化傾向が現れます。
製品には検査役員の数回に及ぶ厳重な検査が行われ、
選考された合格品だけが藩に納められ、欠点をもつ不合格品は残らず破砕されました。
1871(明治4)年の廃藩置県によって鍋島藩窯も廃窯となりました。

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盛期鍋島

盛期鍋島とは1670~1730年代に鍋島藩窯で焼成された作品です。
1693(元禄6)年に2代藩主・鍋島光茂の名で藩庁から有田皿山代官へ発された手頭によると、
献上品の厳しい管理や納入期限を厳守する事、
いつも同じ意匠の図柄ではなく、
脇山(有田民窯)の意匠でも良い物は取り入れて斬新で優れた磁器を造る事、
藩窯技術の漏洩を防ぐ為に脇山からの細工人の立ち入りを禁じる事、
不出来作品は藩窯内で割り捨てる事、
脇山で優れた技術者を発見した場合は連れてくる事、
以前から勤めている技術者でも下手な者は解職させる事等の大革新が謳われており、
以後の作風は大変革を遂げました。
実際に鍋島文様を見ていくと相対的に有田民窯での使用が古いと考えられる例が多いです。
高台を塗り潰した櫛歯文も脇山では1640~50年代に猿川窯等の例があり、
ぼかし濃みも柿右衛門窯や南川原窯ノ辻窯等で完成した技術が、
盛期鍋島に洗練された形で現れます。
絵画調の図案を主流に中央白抜き法の導入を始めとした技術が冴え渡り、
完成度を極めた精巧無比の日本磁器の頂点に相応しい最盛期を迎えました。
代表的な色鍋島の多くがこの時代に造られ、
技術的に困難であった大皿も多く手掛けられました。
皿の曲線も均整の取れた見事なバランスを保っています。
通常の有田民窯に比べて高台が高いというのは格式を演出する意味合いも含まれており、
裏側面の文様は櫛高台に七宝結文の組み合わせが主流となります。
特殊な事例として一部作品に金彩も確認されています。