鉄釉(飴釉)がたっぷりと施された古上野(釜ノ口窯)の名品です。細部に至るまで端正に造形された品位ある作行は利休七哲に数えられる細川三斎公の生真面目な性格を表しているかのようです。桃山の流れを汲む豪快な気風の中に「綺麗さび」の美意識も垣間見え、落ち着きある艶を帯びた肌合いが何ともいえない美しさを醸し出しています。高台には四つの貝目跡が残っています。黒の半筒形を呈した佇まいは師である利休の樂茶碗を意識しているようにも捉えられます。小堀宗慶宗匠より命銘された「玄鶴」は二千年の時を経て、黒色に変化したと云われる鶴で、長寿の象徴として喜ばれます。「上野焼は遠州好みの窯の一也」と記されており、小堀遠州の好みを受けて創出された「遠州七窯」に寄せる特別な思いを受け取る事ができます。
- 時代
- 江戸初期
釜ノ口窯
1602(慶長7)年頃~1632(寛永9)年
- 重量
- 341g
- 口径
- 11.4×10.9cm
- 高さ
- 7.7cm
- 底径
- 6.4cm
- 次第
- 仕覆
時代箱
遠州流12代 小堀正明宗慶 書付(銘:玄鶴)
- 状態
- 口縁に薄い入があります
抜群の土味、美しい艶を帯びた釉調、伝世の優れた状態と一級品の条件を満たしています。光が当たり、一部が青く輝いて見えますが、実際は品位ある黒色を呈しています。
上野焼
上野焼とは豊前国小倉藩細川家の庇護の下に御用焼として焼成された陶器です。
小堀遠州の好みを受けて創出された「遠州七窯」としても知られています。
初代藩主・細川忠興(号:三斎)は関ヶ原の軍功で丹後国宮津から豊前国中津に国替えとなり、
1602(慶長7)年に豊前国中津から豊前国小倉へ入封しました。
忠興は渡来陶工・尊楷(和名:上野喜蔵)を召し抱え、
上野郷に本格的で大規模な形態を備えた「釜ノ口窯」を開窯しました。
釜ノ口窯は優れた茶陶を数多く創出し、本流としての活動を成した事で著名です。
釜ノ口窯だけでは供給が不十分であった為、「岩屋高麗窯」も続いて開窯されました。
岩屋高麗窯は釜ノ口窯の厳しい均整美とは相反した民需用の自由奔放な要素が伺えます。
又、上野郷諸窯とは別に小倉城下には藩主自らのお好み窯(菜園場窯)も知られています。
その後、1632(寛永9)年に2代藩主・細川忠利が肥後国に移封した事で、
上野焼は播磨国明石より入封した小笠原家に引き継がれました。
忠興が八代城に入封すると忠興に務める尊楷も二子の忠兵衛と藤四郎(徳兵衛)を連れ、
肥後国で「八代(高田)焼」を焼成しました。
一方、三男・十時孫左衛門と娘婿・渡久左衛門は上野郷に残され、
小笠原家の庇護の下に「皿山本窯」を中心として二家共同で製陶に携わりました。
享保年間(1716~1736)には吉田家も加わり、
1871(明治4)年の廃藩置県まで藩窯として活動しました。
釜ノ口窯 1602(慶長7)年頃~1632(寛永9)年
釜ノ口窯は優れた茶陶を数多く創出し、本流としての活動を成した最初期の窯です。
日本陶磁協会は1955(昭和30)年に発掘調査を行いました。
焼成室15室と焚口1室から成る全長41mと大規模な連房式登窯で、
土灰釉、藁灰釉、飴釉等を用いて多くの日用品も焼成されました。
茶碗や向付等には高台内まで釉薬が施された総釉の作例が知られており、
高台の畳付部分には山川の蜆貝、砂、籾殻等の痕跡も確認されています。
尚、茶入や上手の作品は匣鉢に入れて焼成されたとも伝えられています。
筑前国(福岡藩黒田家)と豊前国(小倉藩細川家)との国境に位置し、
技法や造形に高取焼と共通性が見られる事からも技術の交流があったと推定されています。
其々において時代の好みの変化に応えるように数々の名品が焼成されました。
隣接する内ヶ磯窯(高取焼)が閉窯すると多数の陶工達は釜ノ口窯に流入しました。
1632(寛永9)年、2代藩主・細川忠利の肥後移封に伴って閉窯しました。
遠州流12代小堀正明宗慶 1923(大正12)年~2011(平成23)年
遠州流12代小堀正明宗慶は遠州流11代小堀正徳宗明の長男として生まれました。
名を勝通、号を宗慶・喜逢・興雲・成趣庵・紅心といいます。
東京美術学校(現:東京芸術大学)在学中、学徒出陣にて満州に従軍しました。
終戦後はシベリアで4年間の抑留生活を経験し、
1949(昭和24)年に復員しました。
帰国後は父に師事して茶匠に専念しました。
1950(昭和25)年、音羽護国寺において「遠州公嫡子大膳宗慶公」の号を襲名しました。
1962(昭和37)年、遠州流12代家元を襲名しました。
1992(平成4)年、永年の文化功労で都知事表彰を受けました。
1993(平成5)年、勲四等旭日小綬章を受章しました。
「国民皆茶」をモットーに茶道界のリーダーとして茶道本源に関しての研究は勿論の事、
建築、造園、花道、香道、書道各般の分野においても幅広く活動しました。
特に名物裂の研究や茶花に関しては当代随一とも云われ、
藤原定家の流れをくんだ「定家書風」の第一人者としても知られています。