象嵌技法により狂言袴(狂言師の袴文に見立てた文様)が表現された八代焼(高田焼)です。菱形水指は唐物や須恵焼にも確認されており、板作りにより面を矛盾なく組み立て、焼成するには高度な技術力が求められました。水草の菱の実に似ている事からの名称で、菱は繁殖力が強い為、子孫繁栄や五穀豊穣の願いも込められています。又、菱の実は固く尖っている事から、「撒菱(まきびし)」として、追手から逃げる忍者がばら撒いて使っていた事から身を守る「魔除け」の意味もあります。箱書きから弘化三年(1845)の秋に献上された事が窺えます。
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- 商品コード
- 220913-5
- 時代
- 江戸後期
18~19世紀
- 重量
- 1,720g
- 径
- 21.7×18.4cm
- 高さ
- 14.4cm
- 次第
- 塗蓋
時代箱
武者小路千家13代 有隣斎徳翁 書付
- 状態
- 完品(無傷)
口縁に窯疵があります
柔らかな肌合いに白象嵌が鮮明に表れています。制作過程において生じた窯疵がありますが、使用上で問題になる事はありません。
八代焼
八代焼とは肥後国熊本藩細川家の庇護の下に御用焼として焼成された陶器です。
別名を高田焼と云います。
1632(寛永9)年に2代藩主・細川忠利が肥後国に移封した事で、
細川忠興(三斎)の御用を務めた尊楷(和名:上野喜蔵)も二子の忠兵衛と藤四郎(徳兵衛)を連れ、
1633(寛永10)年に高田手永奈良木木下谷(現:八代市奈良木町木下谷)に「奈良木窯」を開窯しました。
細川家が入封する以前の加藤家の時代には既に同地で陶器生産が行われていたとされ、
尊楷がこの窯を引き継いだと推測されています。
奈良木窯の作品は釜ノ口窯(上野焼)に類似した三斎好みの侘びた茶陶が主体を成します。
1645(正保2)年、忠興が逝去すると尊楷は出家して扶持を返上し、「宗清」と号しました。
1654(承応3)年に尊楷が逝去した後、
1658(万治元)年に忠兵衛と藤四郎は高田手永平山(現:八代市平山新町)に「平山窯」を開窯しました。
1669(寛文9)年に3代藩主・細川綱利の目に留まり、
二人は共に藩の御用焼物師となり、五人扶持を給されました。
公的な支援を受ける事ができる御用窯として揺るぎない地位を確立しました。
藩茶道方の管理下で、「木戸上野家」、「中上野家」、「奥上野家」の上野三家が共同で制作に当たり、
中上野家が1767(明和4)年、木戸上野家と奥上野家が1783(天明3)年に苗字帯刀を許されました。
八代焼の代名詞でもある象嵌技法は18世紀以降に隆盛し、
当初は牡丹文に代表される面的象嵌と圏線等の文様が多くを占め、
時代を追って印花や黒象嵌等の表現が多様化し、
江戸後期には絵画的な描線を象嵌で施す洗練された手法や暦手が確立しました。
19世紀には柔らかな白素地に黒象嵌や染付を施した「白高田」を始め、
皿、猪口、鉢等の多量の日用品を盛んに焼成しました。
又、全国的に広まる中国趣味の影響から硯屏、陶硯、水滴等の文房具も目立ちます。
1871(明治4)年に廃藩置県が施行されると旧藩時代の制度は一掃されます。
八代焼に対する保護政策や様々な特権を失った上野家や藩の御用職人達は大打撃を受け、
存亡の危機に立たされる苦難の時代を迎えました。
八代焼は藩窯故に窯の改築や修復、焼物生産に必要な経費の支給や補助を受けてきました。
しかし、藩の手を離れると平山窯の修復にさえも手が及ばないようになり、
1891(明治24)年に永く居住したこの地を離れる事となりました。
1892(明治25)年、木戸上野家は平山から更に南方の八代市日奈久に転居して再出発を図ります。
中上野家と奥上野家は明治末年に廃業しましたが、
嫡流の木戸上野家は八代市日奈久で現在も伝統を守り続けています。
武者小路千家13代 有隣斎徳翁 1913(大正2)年~1999(平成11)年
武者小路千家13代有隣斎徳翁は、
1941(昭和16)年に武者小路千家12代愈好斎聴松の娘婿として官休庵に入りました。
1953(昭和28)年、武者小路千家13代家元を襲名しました。
1964(昭和39)年、日本初の茶道専門学校「千茶道文化学院」を開校しました。
1983(昭和58)年、古稀を境に「徳翁」と号しました。
1989(平成元)年、長男・不徹斎に家督を譲って隠居し、「宗安」と名乗りました。
京都帝国大学の出身であり、茶儀に自らの学識を活かし、知性派の家元として知られました。
現代茶道文化の隆盛に尽力を示し、
断固として自分の意志と目標を高く持ち続けました。