古美術 天平堂

萩井戸茶碗(12代 坂倉新兵衛 / 即中斎宗左 書付)

120,000

「萩焼中興の祖」として名工の誉れ高い12代坂倉新兵衛氏の井戸茶碗です。貫禄ある作行と美しい窯変が巧みに調和し、横に棚引く雲を連想させる事からの命銘です。萩焼には抹茶の緑が美しく映えます。

作者
12代 坂倉新兵衛
1881(明治14)年~1960(昭和35)年
山口県指定無形文化財
状態
完品
重量
340g
口径
14.9cm
高さ
8.8cm
底径
5.6cm
次第
共箱

表千家13代 即中斎宗左 書付(銘:横雲)
商品コード
210711-8

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12代 坂倉新兵衛 1881(明治14)年~1960(昭和35)年

12代坂倉新兵衛は11代坂倉新兵衛の長男として山口県長門市に生まれました。
本名を平吉といいます。
1897(明治30)年、12代坂倉新兵衛を襲名しました。
1898(明治31)年、萩焼宗家9代坂高麗左衛門に師事して萩焼再興を志します。
1899(明治32)年に修行の余暇を利用して萩漢学塾に学び、
吉田松陰の兄・杉民治に茶道の手解きを受けました。
1905(明治38)年、山口県長門市深川湯本の自家に築窯して独立しました。
1910(明治43)年、関西府県連合共進会で受賞しました。
1913(大正2)年に山口県知事より萩焼販路調査を委嘱され、
香川県高松市久保町の海徳寺にて萩焼陶器展を開催しました。
1919(大正8)年、茶陶としての技術を更に高める為に表千家12代惺斎宗左に師事しました。
惺斎宗左の知遇を得て御好み窯の許しを受け、御好み道具制作の御下命を受けました。
1922(大正11)年、平和博覧会美術館部で受賞しました。
1926(昭和元)年、聖徳太子奉讃会美術展で総裁久邇宮賞を受賞しました。
1932(昭和7)年、山口県立深川高等女学校茶道教授を嘱託されました。
1943(昭和18)年、萩焼における工芸技術保存資格者として指定を受けました。
1947(昭和22)年、美術陶器認定委員に就任しました。
天皇陛下が山口行啓の際、献納品を制作しました。
1948(昭和23)年、萩焼美術陶芸協会会長に就任しました。
惺斎宗左亡き後は表千家13代即中斎宗左に師事して乱飾相伝を許されました。
1950(昭和25)年、萩焼振興の功績により中国文化賞を受賞しました。
1953(昭和28)年、全国陶磁器大展示会で優良賞を受賞しました。
1954(昭和29)年、千家同門会山口県支部顧問に推挙されました。
長門湯本振興会長に推挙されました。
1956(昭和31)年、山口県指定無形文化財に認定されました。
1957(昭和32)年、日本工芸会正会員となりました。
文化財保護委員会より記録作成等の措置を構ずべき無形文化財として選択を受けました。
1960(昭和35)年、長門市ロータリークラブ会長に就任しました。
1966(昭和41)年、茶碗が文化財保護委員会に買い上げられました。
明治期に入ると萩焼は藩の庇護を失って急速に衰退しましたが、
10代三輪休雪と萩焼復興に尽力して絶大な業績を残し、「萩焼中興の祖」と仰がれています。
茶陶としての格式を高める為に表千家で茶の湯を学んで表千家との深い繋がりを持ち、
茶の湯と萩焼との結び付きを強調する事で茶陶萩焼のブランドイメージを確立しました。
作風は控えめで茶の湯の場に馴染む事を第一に温和と品位を求めています。


表千家13代 即中斎宗左 1901(明治34)年~1979(昭和54)年

表千家13代即中斎宗左は表千家12代惺斎宗左の次男として生まれました。
名を覚二郎(後に宗左)、号を即中斎・無尽・清友軒といいます。
父が亡くなる前年に兄・不言斎宗員が急逝した為、
1937(昭和12)年に表千家13代家元を襲名しました。
1940(昭和15)年、利休三百五十回忌を営みました。
1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発して茶道界も低迷を極めましたが、
戦後の混乱期にあっても余念なく家元の古格や伝統を保持する事に尽力しました。
社団法人表千家同門会や財団法人不審菴を設立して、
現代における茶道普及・伝統保持という組織機構の基礎を築き上げました。
機関誌『同門』を発行しており、
編著書に『即中茶記』、『表千家』、『元伯宗旦文書』、『千里同風』等が知られています。


井戸茶碗

井戸茶碗とは高麗茶碗の一種です。
作行の相違から「大井戸」、「小井戸」、「青井戸」、「小貫入」等に区別されており、
井戸に準ずる一連の高麗茶碗は「井戸脇」と呼ばれています。
名称の由来については人物名や地名等の様々な諸説がありますが、
他の高麗茶碗と同様に定かではありません。
見所は大振りで腰の張った椀形、胴にめぐる轆轤目、深い見込み、溶着を防ぐ為の目跡、
高い竹節高台、高台内に立った兜巾、貫入の見られる枇杷色の釉薬、
高台回りに釉薬が結露のように集まって生じた梅花皮等ですが、
これらの諸条件を全て備えた茶碗は少ないです。
焼成された窯の所在や年代等の確証は定かではありませんが、
16世紀頃に慶尚南道付近の民窯で焼成された物と推測されています。
「一井戸、二楽、三唐津」と謳われるように高麗茶碗の最高位とされており、
古くから賞翫されてきた為か日本に伝来する井戸茶碗の数は比較的多いです。
村田珠光や千利休によって侘び茶が大成される中で高麗茶碗の受容は進んでいきますが、
中でも井戸茶碗は室町~桃山時代にかけて日本に請来され、
無作為の姿形や景色が侘びの茶風に適うものとして格別の存在になっていきました。
大らかで枯淡な美を見出して茶の湯に取り上げた茶人達の見立ての眼力や執着には、
並々ならぬものがありました。
16世紀末の天正年間末期には既に天下一の評価を受けていたとされ、
それだけに大名家の所蔵品に帰する物も多く、
所有者の名前を銘とする井戸茶碗が多いのも頷けます。