古美術 天平堂

栗(熊谷守一)

800,000

実りの秋を象徴する最晩年(97歳)の作品です。純粋無垢な心で物の本質を捉えた熊谷芸術は多くの人々の心を魅力し続けています。真鍋井蛙氏の著書『もうひとりの熊谷守一』に所載されている現品です。

作者
熊谷守一
1880(明治13)年~1977(昭和52)年
状態
良好
本紙サイズ
(縦)40.8×(横)31.7cm
額装サイズ
(縦)57.1×(横)48.1cm
種類
紙・水墨淡彩
次第
「熊谷守一水墨淡彩画鑑定登録会」鑑定登録証書(ナ-1355)
タトウ箱は後日にお届けします
来歴
ギャラリーなかつみ シール
所載品
『もうひとりの熊谷守一』、真鍋井蛙 編著、P48.
商品コード
210412-2

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熊谷守一 1880(明治13)年~1977(昭和52)年

熊谷守一は熊谷孫六郎の三男として岐阜県恵那郡付知村(現:中津川市付知町)に生まれました。
父は初代岐阜市長や衆議院議員を務め、熊谷製糸工場を経営して裕福でした。
跡を継がせたい父の願いとは裏腹に画家を志します。
1900(明治33)年に東京美術学校(現:東京藝術大学)西洋画科選科に入学し、
黒田清輝や藤島武二の指導を受けました。
同期に青木繁、和田三造達がいました。
1902(明治35)年、父が脳卒中で急死し、父が残した莫大な借金を背負いました。
1904(明治37)年、東京美術学校西洋画科選科を卒業しました。
1905(明治38)年、日露戦争中の樺太漁場調査隊の記録画家等を務めて生活をしていきます。
1909(明治42)年、文展で「蝋燭」が褒状を受けました。
1910(明治43)年、母の危篤の知らせで帰省し、母の死後も付知に留まります。
1915(大正4)年、再上京し、画家仲間から金銭支援を継続的に受けました。
1922(大正11)年、大江秀子と結婚しました。
1930(昭和5)年頃から墨絵を描き始め、晩年は書も手掛けました。
1932(昭和7)年、東京都豊島区長崎町(現:豊島区千早)に転居し、生涯をこの家で過ごす。
1937(昭和12)年、日本画を描き始めます。
1940(昭和15)年、輪郭と平面による独特なスタイルの油彩になりました。
1947(昭和22)年、「二紀会」設立に参加しました。
1951(昭和26)年、二紀会を退会しました。
1967(昭和42)年、文化勲章を辞退しました。
1972(昭和47)年、勲三等叙勲を辞退しました。
1976(昭和51)年、郷里の岐阜県中津川市付知町に「熊谷守一記念館」が設立されました。
1985(昭和60)年、45年間住んだ豊島区千早の旧宅跡地に「熊谷守一美術館」が設立された。
早くから才能を認められながら有名になろうとも思わず、
絵で家族を養えるようになったのは50歳を過ぎて豊島区に転居した頃からでした。
戦後は明るい色彩と単純化された形を特徴とした「守一様式」と呼ばれる画風を確立し、
深い洞察力を持って独自の画業を切り開きました。
晩年の30年間は足腰が弱って自宅から殆ど出る事なく、
昼は専ら自宅の庭で過ごし、
草木茂る中に見られた昆虫、鳥、猫、花等の身近な動植物がモチーフとなっており、
若い頃に写生したデッサンを元に油彩を描きました。
清貧にして芯の通った豊かな人生を生涯現役として過ごし、
対象の本質を捉えた絵と力みのない自然な書は多くの人々を魅了し続けています。