古美術 天平堂

黒茶碗(9代 樂了入)

御売却済

1811(文化8)年以降の最も充実した晩年期に造られた名碗です。了入は樂焼の伝統意識の中で長次郎と共に道入の作陶に目を留め、削るという行為に境地の表現を求めました。しっとりと落ち着いた漆黒の肌合いが何とも心地良く、箆削りの名手としての厳しい技術に裏付けられた自由闊達な作行が細部にまで息づいており、孤高ともいえる一つの到達点さえ感じられます。古樂茶碗は傷や入を伴ったコンディションに難がある作品が多いのですが、現品は無傷完品という極めて良好な状態を保っています。

作者
9代 樂了入
1756(宝暦6)年~1834(天保5)年
状態
完品
重量
267g
11.3cm
高さ
7.5cm
底径
4.6cm
次第
共箱
15代 樂吉左衛門 外識箱
商品コード
210311-6

9代 樂吉左衛門(了入) 1756(宝暦6)年~1834(天保5)年

9代樂吉左衛門は7代樂吉左衛門(長入)の次男として京都に生まれました。
名を惣次郎(後に吉左衛門)、諱を喜全、号を秀人(後に雪馬)・了入・翫土軒といいます。
兄・得入が病弱であった為、
15歳の1770(明和7)年に9代樂吉左衛門を襲名しました。
安永年間(1772~81)に赤黒茶碗を200碗制作しました。
1788(天明8)年に「天明の大火」に遭って多くを失いますが、
表千家8代啐啄斎宗左を始めとする千家の力添えもあり、
樂家を再建して旺盛な作陶生活を営み、
後に「樂家中興の祖」と仰がれています。
1789(寛政元)年、長次郎二百回忌に赤茶碗を200碗制作しました。
この時に使用した印は「寛政判」、「茶の子判」と称されています。
1811(文化8)年、次男・旦入に家督を譲って隠居し、「了入」と号しました。
表千家9代了々斎宗左より「了」字を授かった事に由来します。
1818(文政元)年に赤黒茶碗を50碗制作し、
了々斎より「翫土軒」の額を授かって号としました。
1819(文政2)年、旦入と紀州徳川家御庭焼に従事しました。
1825(文政8)年、近江国石山に隠居しました。
古希を記念して赤黒茶碗を70碗制作しました。
箆削りを作陶の中心と据えて求めた中に、
精神的な心の自在性や境地へと高まる内面的な試みが垣間見え、
了入茶碗に刻まれた箆は葛藤の痕跡といえます。
掛け分けを創案した事でも知られており、
妻の妙詠も陶技を嗜んで「尼焼」の茶碗や香合を紀州徳川家に献上しています。

了入の作陶期は大きく三期に分類されます。
一期は襲名した1770(明和7)年から1788(天明8)年の天明の大火までを「焼け前」といい、
樂印「火前印」は「樂」字の中央が「自」となって横棒が右下がりです。
二期は天明の大火(団栗焼け)後の1788(天明8)年から1811(文化8)年に隠居するまでで、
歴代から伝わった陶土や印を消失した為に「中印」と称される樂印を用いており、
新しい陶土で作行にも大胆な箆削りを見せる意欲的な作風が現れました。
三期は隠居した1811(文化8)年以降で最も作品が充実しています。
歳を重ねて到達した境地ともいえる技巧を脱した自由闊達な魅力に溢れており、
「草樂印(草書印)」を用いました。
他に「翫土老人印」も知られています。


15代 樂吉左衛門(直入) 1949(昭和24)年生

15代樂吉左衛門は14代樂吉左衛門(覚入)の長男として京都に生まれました。
名を光博(後に吉左衛門)、号を直入といいます。
1973(昭和48)年、東京芸術大学彫刻科を卒業後、イタリアに留学しました。
1981(昭和56)年、15代樂吉左衛門を襲名しました。
1987(昭和62)年、日本陶磁協会賞を受賞しました。
1988(昭和63)年、長次郎四百回忌を営みました。
1991(平成3)年、京都美術文化賞を受賞しました。
1992(平成4)年、日本陶磁協会賞金賞を受賞しました。
1993(平成5)年、MOA岡田茂吉優秀賞を受賞しました。
1997(平成9)年、織部賞を受賞しました。
1998(平成10)年、毎日芸術賞を受賞しました。
2000(平成12)年、フランス政府より芸術文化勲章・シュヴァリエを受章しました。
2001(平成13)年、京都府文化賞功労賞を受賞しました。
2006(平成18)年、MOA岡田茂吉大賞を受賞しました。
2007(平成19)年、京都市文化功労賞を受賞しました。
滋賀県守山市の佐川美術館に「樂吉左衛門館」が新設されました。
京都市文化功労者として顕彰を受けました。
2019(令和元)年、長男・篤人に家督を譲って隠居し、「直入」と号しました。
海外でも優れた活動が注目されており、
伝統の中に現代性を付与した作風は現代における樂焼を掲示しています。
「焼貫」の技法を駆使した大胆な箆削りによる前衛的な作風を確立しています。