古美術 天平堂

薩摩錦手藍地窓絵人物文蓋付瓶(明治時代)

御売却済

「百花繚乱」という名が相応しい京薩摩のトップブランド・錦光山の名品です。超絶技巧の圧倒的な細密描写は他の追随を許さず、このランクの作品は入手困難といえます。薩摩錦手の研究者・大森一夫氏の識札が付属しており、氏の著書2冊に現品が掲載されています。

時代
明治時代
19世紀後半
状態
蓋に共直しがあります
重量
599g
胴径
11.6cm
高さ
24.3cm
底径
7.2cm
在銘
錦光山
次第
大森一夫 識札
タトウ箱
所載品
『幕末明治の貿易陶磁 薩摩錦手』、大森一夫、P9,No12.
※上記の図録のみ付属します
『世界に翔けた 幕末明治の薩摩(SATSUMA)焼』、大森一夫、P41,No105.
商品コード
201213-9

薩摩焼

薩摩焼とは薩摩国鹿児島藩島津家の庇護の下に御用焼として焼成された陶磁器です。
桃山時代における特筆すべき文化の一つは千利休による茶道確立と侘び茶の流行です。
利休門下の茶人として知られる17代当主・島津義弘も自領内での茶陶焼成を試みました。
文禄・慶長の役で朝鮮半島から陶工を召致してきた事が開窯の契機となっています。
薩摩焼諸窯は主に竪野焼、苗代川焼、元立院焼、龍門司焼、平佐焼に大別されています。
庶民用の「黒薩摩(黒物)」と藩主用の「白薩摩(白物)」を主体とし、
古帖佐、火計り手、宋胡録手、蛇蝎釉、鮫肌焼、錦手(金襴手)等の多彩な種類が知られます。
18世紀には平佐焼が興り、色絵や染付を中心とした華麗な装飾磁器が展開されました。
豪華絢爛の錦手は竪野系(藩窯)の窯で開発が進められ、19世紀に入って隆盛を極めました。
1855(安政2)年に28代当主・島津斉彬は、
鹿児島市吉野町磯の別邸内に磯窯(磯御庭焼)を開窯しました。
斉彬は富国強兵・殖産興業を目的とした集成館事業として、
薩摩焼においても苗代川焼の朴正官を召致して試験改良や開発研究に従事させた結果、
白盛絵具の実用化や金盛技法の確立によって錦手の完成に大きく寄与しました。
1857(安政4)年には薩摩藩営陶磁器製造所の支部が苗代川に設立され、
12代沈壽官が磁器方主取に任命されました。
磯窯は1863(文久3)年の薩英戦争で閉窯しました。
この薩英戦争を機に薩摩国と英国は協定を結びます。
1858(安政5)年に江戸幕府はアメリカとの間に日米修好通商条約を締結し、
次いで、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも修好通商条約を締結しました。
1859(安政6)年に長崎港、函館港(北海道)、横浜港(神奈川県)が開港され、
1868(明治元)年に神戸港(兵庫県)、新潟港が開港されると諸外国との貿易が開始されました。
1867(慶応3)年、鹿児島藩は朴正官の「錦手花瓶」をパリ万国博覧会に出品しました。
更に1873(明治6)年のウィーン万国博覧会に出品された12代沈壽官の錦手が好評を博し、
名声は飛躍して世界を市場にした薩摩焼の大盛況時代を迎えました。
この華麗な装飾陶器は「SATSUMA」の商標で輸出され、欧米諸国で特に愛好されました。
このように好評を博した事から其々の土地でも薩摩風陶器は生産され、
「本薩摩」に対し、「京薩摩」、「大阪薩摩」、「横浜薩摩」、「東京薩摩」等と呼ばれています。
しかし、1897(明治30)年前後から急速に人気を落として衰退の傾向を辿り、
大正年間(1912~26)には欧米諸国の需要を殆ど失いました。
要因は大量生産による粗製乱造であったとされています。
近代、錦手は主な輸出先であった欧米諸国から相次いで里帰りしています。
現在は15代沈壽官を中心とし、その伝統を受け継いでいます。

桃山~江戸時代(年表)


京薩摩

京薩摩とは明治初期を中心に京都で焼成された輸出用の色絵陶器です。
幕末に江戸幕府は各国と修好通商条約を締結し、
1867(慶応3)年のパリ万国博覧会で日本の美術工芸品が好評を博した事を契機とし、
京都でも薩摩錦手が貿易輸出品として盛んに生産されました。
特に錦光山を始めとする粟田口焼の陶家がこれに参画し、
1870(明治3)年には錦手の彩画技法が完成したとされています。
1872(明治5)年頃から錦光山宗兵衛と帯山与兵衛が本格的に輸出を開始し、
1877(明治10)年の西南戦争により本薩摩(鹿児島県)の海外供給が危機に瀕した中で、
京薩摩は急激に輸出量を増大させていきました。
洗練された優雅な作品には伝統の奥深さが感じられます。