古唐津茶碗

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おおらかな品位を備えた古唐津茶碗です。枇杷色の優しい肌合いと小貫入が何ともいえない味わい深い景色を作り出しており、抹茶の緑色がとても美しく映えます。小山冨士夫に「古唐津の神様」と言わしめた西岡小十の鑑定箱となっており、奥高麗や絵唐津等の多くの名品を生み出した事で知られる、市ノ瀬高麗神窯の作品である事を証明しています。

御売却済

時代桃山~江戸初期(16世紀後半~17世紀前半)
状態口縁に金銀直しがあります
口径13.0×12.5cm
高さ5.9cm
底径5.8cm
次第西岡小十 識箱
松浦系古唐津 市ノ瀬高麗神窯
商品コード: 190403-2 商品カテゴリー:

説明

古唐津

 唐津焼とは肥前国唐津藩を中心とした肥前地方で焼成された陶器です。
名称は唐津港から積み出しされた事に由来しています。
「一楽、二萩、三唐津」と謳われるように茶陶の分野においても高い評価を受けています。
この地は嘗て松浦党領袖であった波多三河守親の支配下にありましたが、
文禄の役における失態を理由として、
1593(文禄2)年に豊臣秀吉から波多氏が改易されると、
尾張国出身の寺沢志摩守広高の領地となって肥前国唐津藩が成立しました。
唐津古窯跡の中でも最も早い創業とされるのが岸岳山麓に点在する諸窯で、
これは朝鮮から移住してきた渡来陶工達によって焼成されたと考えられています。
岸岳は海抜約320mの山麓で波多氏が山城を築いて居城した地でありましたが、
波多氏改易に伴って岸岳陶工達は肥前各地に離散しました(岸岳崩れ)。
波多氏の改易と岸岳諸窯の廃業は、
1593(文禄2)年以前から古唐津が焼成されていた根拠の一つとされています。
唐津焼の創始については発掘調査や研究から天正年間(1573~92)頃と考えられています。
創生期は天正年間頃だとしても唐津焼は文禄・慶長の役に始まったといっても過言でなく、
桃山~江戸初期にかけて優れた作品を多く焼成した隆盛期を迎える事になります。
この桃山~江戸初期までの作品は「古唐津」と呼ばれています。
唐津焼はその殆どが一般庶民の日用品として量産された物ですが、
点茶が流行した桃山~江戸初期頃には茶人間の眼に留まって茶陶に見立てられました。
この雑器的な素朴さも唐津焼の大きな魅力の一つです。
中には茶人や茶道具商による注文品もあり、
全体的な総数からすると極めて少ない事から特に高い評価を受けています。
17世紀に入ると唐津焼にとって大きな事件が生じる事になります。
渡来陶工・李参平(和名:金ヶ江三兵衛)による泉山陶石の発見と磁器焼成の成功です。
伊万里焼の生産拡大は唐津焼衰退に大きな影響を与えました。
江戸前期には二彩唐津等に特色が見られるもの古唐津程の魅力は失われ、
以後は僅かに御用窯(御茶碗窯)が残るだけとなりました。

桃山~江戸

松浦系古唐津

 松浦系古唐津とは佐賀県伊万里市に散在した古窯で焼成された古唐津です。
1593(文禄2)年に豊臣秀吉から波多三河守親が改易されると、
寺沢志摩守広高の領地となって肥前国唐津藩が成立しました。
文禄・慶長の役の際に渡来した朝鮮陶工達や岸岳崩れによって離散した岸岳陶工達により、
多くの窯が領内各地に開窯されて古唐津の全盛期を迎えました。

西岡小十 1917(大正6)年~2006(平成18)年

 西岡小十は佐賀県唐津市に生まれました。
本名を悟といいます。
1953(昭和28)年頃から唐津古窯跡の発掘調査を始めました。
1969(昭和44)年、小山冨士夫と親交を深めました。
1971(昭和46)年、小山冨士夫の指導を受けて「小次郎窯」を開窯しました。
1976(昭和51)年、荒川豊蔵が来窯しました。
1980(昭和55)年、藤原啓が来窯しました。
1981(昭和56)年、「絵斑唐津」の復元に成功しました。
荒川豊蔵の命名による「小十窯」を開窯しました。
1983(昭和58)年、「梅花皮唐津」の復元に成功しました。
1999(平成11)年、石川県能美市辰之口町に加賀唐津「辰之口窯」を開窯しました。
古陶器に関する周到な研究に裏付けられた確かな技術力は、
世界的権威のある陶磁研究家・小山冨士夫をも魅了し、
「唐津焼の事なら知り尽くしている古唐津の神様」と言わしめ、
荒川豊蔵には「唐津を熟知している西岡には何も言う事がない」と評されました。
世間の私利私欲とは無縁の無冠を貫いて古唐津再興に邁進した、
現代唐津焼の第一人者として不動の地位を確立しています。