お茶の歴史

History of Coffee & Tea

コーヒーの歴史

コーヒーはエチオピアで発見されたと伝えられていますが、いつ頃から飲用・栽培されるようになったのかについては判明されていません。6~8世紀頃にはアラビア半島に伝わり、夜通しで瞑想や祈りを捧げるイスラム神秘主義の修道者が、実を潰して丸めた物や煮汁を眠気覚ましに用いていました。13世紀頃からコーヒー豆の焙煎が行われるようになったとされており、一部の修道者だけが用いる宗教的な秘薬でしたが、15世紀にはコーヒーの飲用を正式に認めるファトワー(勧告)が発され、一般民衆にも飲用の習慣が広まっていきます。欧州には16世紀末頃にオスマン帝国から伝えられました。日本には江戸時代にオランダから伝えられ、当初は長崎・出島に出入りしていた丸山の遊女や限られた日本人にのみ嗜まれました。江戸時代においては嗜好品というよりも水腫に対する薬効成分が期待され、1804(文化元)年に大田蜀山人が著した『瓊浦又綴』には、「焦げ臭くて味ふるに堪えず」と記載されているように口に合わなかった様子が窺えます。本格的な輸入は開国以後となりますが、明治の頃まで高級品として取り扱われていたコーヒーも大衆化して希少性がなくなると、その薬効成分もあまり注目されなくなっていきます。近年はコーヒーと健康についての研究結果が報告され、その優れた効能が判明されてきています。

コーヒーが持つ効能と健康について

コーヒーと健康については様々な研究が行われ、「糖尿病、動脈硬化の予防」、「肝臓がん、女性の子宮体がん、大腸がんの予防」、「血糖値、血圧の抑制」等の多くの好ましい結果が報告されています。コーヒーはカフェイン飲料という印象が強いのですが、これは成分の一環に過ぎず、ナイアシン(ビタミンB3)等の優れた成分を豊富に含んでいます。適度な運動と適切な食事を基本とし、身近な健康のパートナーとして上手に付き合っていきたいですね。

紅茶の歴史

1610年にオランダ東インド会社が日本(平戸)から欧州にお茶を伝えたとされており、これが欧州におけるお茶の出発点となりました。万病に効く東洋の秘薬としてお茶がイギリスに齎されたのは1650年頃です。1662年にイギリス国王・チャールズ2世に嫁いできたポルトガル王妃・キャサリンが、高価な貴重品だったお茶と砂糖を大量に持参し、お茶に砂糖を加えて毎日飲むという贅沢な習慣を宮廷に広めました。当時において東洋趣味のお茶を飲むという習慣は大変珍しく、一般庶民が購入できるようになるのはずっと後からの事です。イギリスは貿易独占権を得ようと、1669年にオランダからお茶を含んだ商品輸入を禁止する法律を制定して宣戦布告します。英蘭戦争に勝利を収めたイギリスは1689年より中国からお茶の直輸入を開始し、1721年にはお茶の輸入権をほぼ独占しました。贅沢な喫茶の習慣はイギリス貴族の社交場であったコーヒーハウスを中心に流行し、18世紀にイギリスが産業革命を成功させると中流階級まで広く愛飲されるようになります。1823年にイギリスのロバート・ブルース少佐が、イギリス植民地であったインドのアッサム地方で自生茶樹(アッサム種)を発見しました。1833年にイギリスはお茶の貿易独占権を失った事で、本格的にインドでの茶栽培に着手していきます。1839年にはイギリス植民地であったセイロン(現:スリランカ)にもアッサム種が伝わり、後にコーヒー農園でサビ病が流行した事で茶栽培へと転換していきます。1845年にイギリスの植物学者・フォーチュンが、緑茶と紅茶の違いは製法の違いで原料は同じ茶樹である事を発見しました。緑茶が紅茶となった経緯は定かではありませんが、製造業者が購買層の嗜好に合わせて発酵を進めている間に誕生したとされています。イギリスは大規模農法(プランテーション)と合理的な加工法で紅茶の量産に成功し、中国紅茶の市場を凌駕するまでに発展を遂げました。1870年代にはオランダもインドネシアで本格的なプランテーションを開発し、インドネシアはインド、スリランカ、ケニアと共に世界有数の紅茶生産国となりました。更に紅茶生産はアフリカ諸国にも広がっていきました。1906(明治39)年には日本で最初に明治屋がイギリスからリプトン紅茶を輸入しました。1927(昭和2)年に三井紅茶(現:日東紅茶)が誕生した事で、高嶺の花であった紅茶が本格的に一般家庭へ普及していきます。1971(昭和46)年の紅茶輸入自由化に伴う価格競争で、国産紅茶は大打撃を受けて市場から姿を消していきました。インドの「ダージリン」、スリランカの「ウバ」、中国の「キーマン」は世界三大銘茶です。

ボストン茶会事件(ボストン・ティー・パーティー事件)

アメリカ大陸はオランダ植民地だった事から上流階級ではお茶を嗜む習慣がありました。イギリス植民地になってからもその習慣は続きます。イギリスはフランスとの戦費で財政が圧迫され、18世紀後半にアメリカ植民地に対してあらゆる関税を強化しましたが、イギリス製品の不買運動を始めとする抵抗を招き、茶税だけ残す事を余儀なくされました。不買運動で紅茶の在庫が大量に余ったイギリス東インド会社を救済する為、1773年にイギリスはアメリカ植民地に無課税で紅茶を売る茶法を制定して、イギリス東インド会社による独占的な紅茶輸出を試みますが、「自由の息子達」と呼ばれる急進派市民がボストンに停泊していたイギリス船を襲撃し、積載していた紅茶を海中投機するという「ボストン茶会事件」を起こします。この事件は1775年のアメリカ独立戦争への契機ともなり、紅茶よりもコーヒーを好むようになっていきました。

アヘン戦争

18世紀のイギリスはお茶の輸入を中国に頼っていましたが、輸入超過で支払いに使用する銀が不足する事態にまで及んでいました。19世紀に銀の貯蔵量が激減した事で、当時中国で薬用に使用されていたインドのアヘンを銀の代わりとして考案しますが、アヘン吸引の悪弊が万延していった結果、1838年に清朝政府はアヘン禁止を発令しました。これを契機に1840年にアヘン戦争が勃発し、清朝政府はイギリスの武力に敗れ、1842年に南京条約(香港割譲等の不平等条約)を調印させられました。