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 天平堂

大西清右衛門

Seiwemon Onishi

大西清右衛門

大西清右衛門は千家の正統的な茶道具を制作する千家十職の一家(釜師)です。
大西家の家祖は山城国南山城広瀬村の出身で当初は「広瀬」姓を名乗っていました。
初代大西浄林が二人の弟(2代大西浄清、大西浄久)達と京へ上洛し、
三条釜座の座人となったのが始まりとされています。


初代 大西浄林 1590(天正18)年~1663(寛文3)年

初代大西定林は山城国南山城広瀬村の出身です。
姓を広瀬(後に大西)、通称を仁兵衛といいます。
門下に2代大西浄清や大西浄久、
代表作に「霰甑口撫肩釜」、「糸目真ノ釜」、「撫肩衝釜」、「姥口撫肩釜」等が知られます。
新しく一家を興し、一派を立てた気概と力量は凄まじいものがありました。


2代 大西浄清 1594(文禄3)年~1682(天和2)年

2代大西浄清は初代大西浄林の弟です。
名を村長、通称を五郎左衛門といいます。
浄林に師事して、古田織部、織田有楽の釜師を務め、
小堀遠州好みの釜も多く造り、
大西家随一の名人として知られています。
初期の大西家の作風を確立しました。
門下に初代宮崎寒雉、
代表作に大猷院廟前の「銅灯台」、東海寺の「梵鐘」、栄興寺(現:影向寺)の「梵鐘」、「蜻蛉釜」、
「織部好み筋釜」、「茶磨形釜」、「三ツ葉覆垂釜」、「夜学釜」、「鰐口釜」等が知られます。
遠州や片桐石州に従って、次男・大西定林と江戸に下り、
定林は江戸に留まって「江戸大西家」を興し、
以後、大西家は京都と江戸に分かれて釜作を行いました。


3代 大西浄玄 1630(寛永7)年~1684(貞享元)年

3代大西浄玄は2代大西浄清の長男として京都に生まれました。
通称を仁兵衛といいます。
初代大西浄林、浄清の作風が受け継がれ、
やや厚みがあり、光沢のある書院風の物が造られましたが、
作品は少ないです。


4代 大西浄頓 1645(正保2)年~1700(元禄13)年

4代大西浄頓は3代大西浄玄の長男として京都に生まれました。
名を清右衛門といいます。
浄玄と同様に作品は少なく、
初代大西浄林、2代大西浄清の大西家初期の伝統的作風を受け継ぎました。


5代 大西浄入 1647(正保4)年~1716(正徳6)年

5代大西浄入は通称を新兵衛といいます。
4代大西浄頓に師事し、
代表作に「肩衝覆垂釜」が知られています。
形は京作風とは変わった物が多く、
地肌は砂家のある物が多く残っています。


6代 大西浄元 1689(元禄2)年~1762(宝暦12)年

6代大西浄元は4代大西浄頓の子として京都に生まれました。
幼名を清吉、名を清右衛門、諱を重義、通称を古浄元といいます。
5代大西浄入に師事し、
代表作に「如心斎文字入り尻張釜」、「如心斎好み鶴首釜」、「同雷声釜」、「紫野尻張釜」、
「青紐釜」、「亀甲釜」等が知られています。
この時代は侘び茶が定着し、千家流の茶道が爛熟期に入りました。
浄元の代から千家出入りとなり、
草庵茶に向く独自の地肌を持った釜を造るようになります。
形も阿弥陀堂釜、鶴首釜等が多く、肌もやや細かい打ち肌で、
焼き抜きの技法を用いて整った肌味を呈し、大西家の作風が確立されました。
後の9代大西浄元と区別して「古浄元」と呼ばれています。
「細野」印を用いました。


7代 大西浄玄 1720(享保5)年~1783(天明3)年

7代大西浄玄は6代大西浄元の子として京都に生まれました。
幼名を清吉、名を清右衛門、諱を末算、通称をくろ玄といいます。
三谷丹下に茶の湯を学び、
質素倹約を旨とした茶風で知られています。
三井家、鴻池家、木下道生庵と親交を持ち、
数寄者として多くの茶道具を愛蔵していたと伝えられます。
謹厳実直で気品ある作風に定評があり、
草庵風の丸釜、尾張釜、阿弥陀堂釜が多く見られ、
地紋を入れる等の工夫も凝らしています。
口造りには荒れを入れて景色を出す等、
並々ならぬ作風の多様性、技術の冴えを示しました。
蓋は焼き抜き技法により、表面に唐銅の酸化物である紅を浮き出させ、
赤味を帯びた入念見事な仕上げで、大西家独自の美しい蓋造りの伝統を打ち立てました。
代表作に「啐啄斎好み玄の字釜」、「累座釜」、「四方釜、「亀甲釜」等が知られています。
浄玄の「玄」から他の浄元と区別して「くろ玄」と呼ばれ、
2代大西浄清に次ぐ名手として「大西家中興の祖」と仰がれています。


8代 大西浄本 1747(延享4)年~1785(天明5)年

8代大西浄本は7代大西浄玄の養子です。
幼名を清吉、名を清右衛門、諱を兼満、諱号を浄本といいます。
浄玄に師事し、代表作に「万代屋釜」、「尻張釜」等が知られています。


9代 大西浄元 1749(寛延2)年~1811(文化8)年

9代大西浄元は奥平善四郎の子として信濃国に生まれました。
幼名を巳之助、名を保房、通称を佐兵衛・佐兵衛浄元、号を了雪といいます。
7代大西浄玄や8代大西浄本に師事しました。
浄本が早世した為に表千家8代啐啄斎宗左の肝煎りで大西家の養子となり、
9代大西清右衛門を襲名しました。
生涯を通して「佐兵衛」を称し、「奥平」印を用いました。
代表作に「啐啄斎好み達磨釜」、「鉄道安風炉」、「若松御釜」等が知られています。
「古浄元」や「浄玄」と区別して「佐兵衛浄元」と呼ばれています。
釜の地肌は荒い物も見られ、晩年には徐々に細かくなってきます。


10代 大西浄雪 1777(安永6)年~1852(嘉永5)年

10代大西浄雪は9代大西浄元の長男として京都に生まれました。
姓を奥平、幼名を清吉、名を三右衛門(後に清右衛門)、諱を長喬、号を弄鋳軒といいます。
父に師事し、門下に玉村徳兵衛や初代高木治良兵衛が知られています。
表千家9代了々斎宗左より「浄雪」、
表千家10代吸江斎宗左より「弄鋳軒」の号を授かりました。
蛤御門の変で類焼した家屋を再建しました。
大西家一番の多作といわれ、
代表作に「了々斎好み甑口平釜」、「鶴首釜」、「筋万字釜」、「光格天皇好み桜霰覆垂釜」、
「桜川釜」等が知られています。
高雅で上品な形、美しく整った地肌と装飾地紋の調和に新境地を開きました。
『名物釜記』、『名物釜由緒聞伝控』、『釜の図』八巻を編纂し、
三千家や諸流派の好物や名物釜の形態等を調査記録し、
大西家随一の学者として知られています。
弟・奥平了保は母方の「奥平」姓を名乗り、
近世における随一の名人として評価されています。
独自の品格のある美しい物を残し、地肌には特徴ある力強さがあります。


11代 大西浄寿 1808(文化5)年~1875(明治8)年

11代大西浄寿は10代大西浄雪の養子です。
旧姓を森、幼名を清吉、名を三右衛門(後に清右衛門)、諱を道敬といいます。
幼くして浄雪の養子となり、
釜の型裏を砥石で磨く事を創始しました。
表千家11代碌々斎宗左より「浄寿」の号を授かりました。
代表作に「玄々斎好み常盤釜・常盤風炉」、「同鯱釜」、「吸江斎好み福庵釜」、「筋広口釜」、
「碌々斎好み羽子板釜」、「竹猗好み雲脚堂釜」、「阿弥陀堂形尻張釜」等が知られています。
作風は豪放華麗で力強く、仕上げにも創意工夫を凝らし、
近世の大西家の伝統に独自の境地を開きました。


12代 大西浄典 1841(天保12)年~1869(明治2)年

12代大西浄典は11代大西浄寿の長男として京都に生まれました。
幼名を清吉、名を三右衛門、諡号を浄典といいます。
妻は11代樂吉左衛門(慶入)の長女・みねです。
代表作に「兜形瓶」等が知られていますが、
早世した為に作品は寡作です。


13代 大西浄長 1866(慶応2)年~1943(昭和18)年

13代大西浄長は12代大西浄典の長男として京都に生まれました。
幼名を清三郎、名を清右衛門、諱を孝信といいます。
幼くして父と死別し、
幼少期を母方の樂家で過ごしました。
表千家12代惺斎宗左より「浄長」の号を授かりました。
玉村徳兵衛(大西浄徳)に後見されて数々の釜を残し、
代表作に「圓能斎好み日ノ丸形万歳釜」、「国師丸釜」等が知られています。
謹厳実直な性格で、作風や形においても生真面目な物が多く、
地肌も隅々にまで神経が行き届いています。
釜の変遷に関する著述等も残しました。


14代 大西浄中 1888(明治21)年~1960(昭和35)年

14代大西浄中は13代大西浄長の長男として京都に生まれました。
幼名を清太郎、名を清右衛門、諱を高道、諡号を浄中といいます。
1926(昭和元)年、14代大西清右衛門を襲名しました。
建仁寺の黙雷宗淵から「高道」、
表千家13代即中斎宗左より「中」の一字を授かって「浄中」と諡されました。
代表作に「淡々斎好み千歳釜」、「淡々斎好み振々釜」、「即中斎好み真ノ釜」、
「即中斎好み宝珠釜」、「海老鐶付撫肩釜」、「霰百会釜小」、「糸目双鶴真形釜」、
「唐銅唐草彫鬼面風炉」、「菊唐草彫皆具」等が知られています。
戦前は大西家の伝統を受け継ぎながら、
数々の変わった形状の釜を手掛け、思い切った力強い物が多く見られます。
戦後は装飾地紋にも改良を加え、典雅華麗な釜を造り、
大寄せや広間に向く、戦後の茶道需要に応じた新分野を開拓しました。


15代 大西浄心 1924(大正13)年~2002(平成14)年

15代大西浄心は14代大西浄中の次男として生まれました。
幼名を益三郎、名を清右衛門、諱を健生といいます。
九州大学を卒業後、京都大学大学院、京都美術学校専攻科で学びました。
1960(昭和35)年、15代大西清右衛門を襲名しました。
千家好みの釜を多く造り、
京釜についての執筆や多くの論文を残しました。


16代 大西清右衛門 1961(昭和36)年生

16代大西清右衛門は15代大西浄心の長男として京都に生まれました。
幼名を英生、名を正晃といいます。
1986(昭和61)年、大阪芸術大学美術学部彫塑科を卒業しました。
1993(平成5)年、16代大西清右衛門を襲名しました。
2003(平成15)年、京都市芸術新人賞を受賞しました。
2006(平成18)年、京都府文化賞奨励賞を受賞しました。
芦屋釜の金属組織、成分、技法解明の研究に着手し、
秘法とされた「挽中子」技法の再現に成功する等の意欲的な活動を続けています。
繊細な図柄を施した釜を得意とします。


大西浄久 生年不詳~1686(貞享3)年

大西浄久は初代大西浄林と2代大西浄清の弟で山城国の出身です。
名を記寿、通称を浄久といいます。
兄・浄林に師事し、小堀遠州の釜師で名手として知られています。
「綺麗さび」の薄作で地紋のある釜を多く造っています。


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