やきもの戦争・文禄・慶長の役‐壬申・丁酉倭乱‐ 古美術天平堂

やきもの戦争

天下統一を果たした豊臣秀吉は次に中国大陸の明国服従に目を向けました。
秀吉は対馬藩の宗氏を通じて朝鮮に入貢と明出兵の先導を求めましたが、
明の冊封国であった朝鮮がこれを拒否すると、
秀吉は肥前・名護屋城を拠点に明進出の足掛かりとして二度に亘って攻め込みます。
1592(文禄元)年から1598(慶長3)年までの足掛け7年間に及ぶもので、
総勢30万人もの兵力を動員した16世紀最大の戦役とされています。
1598(慶長3)年に秀吉が逝去した事で戦役が終結すると、
多くの朝鮮陶工達は諸大名の軍政に伴って日本に召致されていきました。
この戦役は多額の軍資金の消費や多数の将兵の死を始め、
多大の犠牲を払ったもので戦果といえば全く益のないものでした。
只、桃山時代という高揚した侘び茶隆盛の時世を迎えていた折、
西国の諸大名は連れ帰った朝鮮陶工達に自国領内で焼物の焼成を命じます。
藩の殖産事業、藩主自らの茶道具の調達を目的とした事で始められたものですが、
こうした機運が九州古陶磁を始めとする焼物の基盤を作り出し、
西日本一帯を窯業産地化する日本陶磁史における大きな変革となりました。
大量生産を可能にした蹴轆轤や連房式登窯の先進技術を始め、
優秀な朝鮮陶工達が日本の窯業発展に齎した功績は計り知れません。
この文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)は別名「やきもの戦争」とも呼ばれています。

文禄の役 慶長の役

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