千利休・千少庵・千宗旦 古美術天平堂

千家(利休〜宗旦)

千利休の没後にも千家は2代千少庵、3代千宗旦へと続き、
宗旦の三男・江岑宗左が直系として不審菴を継承すると、
宗旦は敷地内に隠居所として茶室・今日庵を建てて四男・仙叟宗室と移り住みました。
宗旦の没後は仙叟宗室が今日庵を継承して裏千家を創設しました。
次男・一翁宗守も当初は塗師を志して養子に入っていましたが、
後に千家に復して武者小路千家を創設しました。
こうして表千家(不審菴)、裏千家(今日庵)、武者小路千家(官休庵)の三千家が成立しました。
古くは上千家(裏千家)、下千家(表千家)等と呼ばれていました。
尚、長男・閑翁宗拙は宗旦に勘当されて早くに千家を離れたとされています。

千家初代 千利休 1522(大永2)年〜1591(天正19)年

千利休は堺の豪商(屋号:魚屋)・田中与兵衛の子として生まれました。
幼名を与四郎、名を宗易、号を抛筌斎・利休居士・利休といいます。
1538(天文7)年から北向道陳に書院茶を学び、
1540(天文9)年に道陳の勧めで武野紹鴎に師事したと伝えられています。
この頃から宗易の道号を用いるようになりました。
紹鴎を中心とした茶の湯の世界に親しみ、各界の茶人達と交流を深めていきました。
1568(永禄11)年に上洛した織田信長は堺を直轄地とするに及び、
今井宗久、津田宗及と共に茶頭に起用されて三宗匠と称されました。
1577(天正5)年に妻・宝心妙樹と死別し、後に宗恩と婚姻関係を結びました。
少庵は後妻の連れ子で道安と同年齢だった事が知られています。
1582(天正10)年に本能寺の変で信長が討たれた後は秀吉の茶頭を務めますが、
信長時代に比較して立場は格段に高まり、側近としての役割を果たすようにもなります。
1585(天正13)年には秀吉の関白参賀の禁中茶会を利休の名で出席して取り仕切り、
正親町天皇に茶を献じた秀吉の後見役を務めました。
この茶会に当たって正親町天皇より「利休居士」の号を下賜されたと伝えられています。
こうして名実共に天下一の宗匠と公認されました。
利休は人生終焉の名であり、茶人としての人生の殆どは宗易として送っています。
1587(天正15)年に秀吉は聚楽第の完成記念を兼ねて北野天満宮境内で北野大茶会を催し、
自らの富と権勢を誇示する為に所持していた名物道具や黄金の茶室を展示公開しました。
利休はこの空前の大茶会の企画や運営に深く関与しました。
しかし、利休の生涯は秀吉との対立により幕を閉じる事になります。
利休切腹の原因については大徳寺山門(金毛閣)に利休像を安置したという説や、
新しい茶器を法外な値段で売却して私腹を肥やしたという説、
茶の湯に対する考え方の違いがあったという説等が知られていますが、
それらは表向きの理由で利休の政治的な立場が絡んでいたと考えられています。
利休はそれまで書院茶を中心に重宝されてきた唐物に代わって、
朝鮮物や和物を採り入れたり、自身の侘びに適う道具を専門の職人に制作させました。
こうして樂茶碗や万代屋釜を始めとした利休道具が生み出されます。
又、草庵茶室にこそ利休の茶の湯が端的に表現されています。
利休は茶聖と呼ばれ、茶道の枠を超えて日本の伝統に大きな足跡を刻みました。

千家2代 千少庵 1546(天文15)年〜1614(慶長19)年

千少庵は千利休の養嗣子(後妻・宗恩の連れ子)です。
幼名を猪之助、名を四郎左衛門・宗淳、号を少庵といいます。
利休と共に茶の湯を世に広めましたが、
利休没後は利休七哲の一人である会津藩の蒲生氏郷の許に身を寄せ、
鶴ヶ城内に茶室・麟閣を造営したとされています。
1594(文禄3)年には帰京が許されて千家再興に努めました。

千家3代 千宗旦 1578(天正6)年〜1658(万治元)年

千宗旦は千少庵の長男として生まれました。
幼名を修理、名を宗旦、号を元叔・元伯・咄々斎・咄斎・寒雲・隠翁・不審菴・今日庵といいます。
10歳の頃に祖父・千利休の意で大徳寺・三玄院に入りました。
春屋宗園に喝食として侍し、後に得度して蔵主にまでなりました。
1594(文禄3)年に少庵の帰京が許されて千家再興が図られると宗旦も還俗し、
1600(慶長5)年に家督を襲名して侘び茶の普及に努めました。
1601(慶長6)年に春屋宗園より「元叔」の号を授かりました。
1646(正保3)年に隠居した後、敷地内に今日庵を建てて四男・仙叟宗室と移り住みました。
祖父・千利休の再現を危惧した宗旦は生涯において仕官を拒んだとされていますが、
子供達の有付(就職)には奔走した事が知られています。
乞食宗旦の異名を取るように生涯の殆どは窮乏生活を余儀なくされ、
侘びに徹した千家中興の祖と仰がれています。

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