表千家・不審菴 古美術天平堂

表千家(不審菴)

表千家(不審菴)とは千利休の血脈を継承する三千家の一つです。
名称の由来については表千家を代表する茶室・不審菴が裏千家の茶室・今日庵に対して、
通りの表にあるからとされています。
代々の家元は4代江岑宗左より幕末に至るまで紀州徳川家(御三家の一つ)の茶頭を務め、
利休伝来の茶の古格を保持してきました。
紀州徳川家と強い繋がりがあった三井家とも縁がある事で知られています。
当代は「宗左」、後嗣(若宗匠)は「宗員」、隠居後は「宗旦」を名乗る伝統があります。
1942(昭和17)年に表千家同門会が設立され、
1975(昭和50)年に社団法人としての認可を受けました。
社団法人表千家同門会は家元に伝わる茶道を継承普及し、
日本文化の向上と発展に貢献する事を目的としています。
1949(昭和24)年、財団法人不審菴が設立しました。
財団法人不審菴は家元の茶室や露地、
利休以来の伝来道具や古文書を保存すると共に利休茶道を伝授継承し、
その精神をもって日本文化に貢献する事を目的としています。
不審菴とは利休が営んだ茶室の名であると共に表千家の機構全体を総称します。
庵号「不審菴」は利休が参禅した古渓宗陳の禅語「不審花開今日春」に由来したものです。

表千家4代 江岑宗左 1613(慶長18)年〜1672(寛文12)年

表千家4代江岑宗左は千宗旦の三男です。
名を十三郎(後に右馬之允・宗受・宗左)、号を堪笑軒・逢源斎・江岑といいます。
1642(寛永19)年から紀州徳川家に茶頭として出仕しました。
紀州徳川家初代藩主・徳川頼宣は江岑を重用し、
代々の家元は幕末に至るまで紀州徳川家の茶頭を務めました。
1646(正保3)年に宗旦は隠居し、江岑は直系として不審菴を継承しました。
これが現在の表千家の始まりであり、
表千家の基礎を固めた江岑宗左より代々「宗左」を名乗るようになりました。

表千家5代 随流斎宗佐 1650(慶安3)年〜1691(元禄4)年

表千家5代随流斎宗佐は久田家2代久田宗利と元伯宗旦の娘・くれの子として生まれ、
表千家4代江岑宗左の養子となりました。
名を源三郎(後に宗巴・宗佐)、号を随流斎・良休、俗称を人偏宗佐・日蓮宗佐といいます。
1673(延宝元)年、表千家5代家元を襲名しました。
表千家では代々「宗左」を称しますが、
随流斎は「宗佐」の字を用いた事から「人偏宗佐」と呼ばれています。

表千家6代 覚々斎宗左 1678(延宝6)年〜1730(享保15)年

表千家6代覚々斎宗左は久田家3代久田宗全の子として生まれ、
表千家5代随流斎宗佐の養子となりました。
名を勘太郎(後に宗員・宗左)、号を覚々斎・原叟・流芳軒といいます。
長男は表千家7代如心斎宗左、次男は裏千家7代竺叟宗室、三男は裏千家8代一燈宗室です。
後に8代将軍となる徳川吉宗が紀州在住の頃に茶頭として仕え、
吉宗候が将軍となった後の1723(享保8)年には唐津焼の桑原茶碗を拝領しました。
晩年には近衛家21代当主・近衛予楽院家凞の知遇を得て茶会に参仕しました。
利休流の茶の湯を守りつつ、新たな境地を求めて自由な茶の姿勢を貫きました。

表千家7代 如心斎宗左 1705(宝永2)年〜1751(寛延4)年

表千家7代如心斎宗左は表千家6代覚々斎宗左の長男として生まれました。
名を与太郎(後に宗巴・宗員・宗左)、号を如心斎・天然・丁々軒・椿斎・松風楼といいます。
弟は裏千家7代竺叟宗室、裏千家8代一燈宗室です。
茶道人口の増大に伴って茶の湯が遊芸化へと傾きつつあった時、
茶道修練に七つの式作法を定めた「七事式」を一燈宗室達と制定した功績は高く評価されています。
これに適した八畳床付の茶室「花月楼」を好んだ事でも有名です。
花月楼の名称は七事式の第一である花月式に由来しています。
玉林院・大龍和尚より「天然」の号、
紀州徳川家6代藩主・徳川宗直より「如心斎」の号を授かりました。
1740(元文5)年、利休百五十回忌を営みました。
千家伝来の道具や記録等を整理した事でも知られ、
現在の家元制度の基礎を築き上げた表千家中興の祖と仰がれています。

表千家8代 啐啄斎宗左 1744(延享元)年〜1808(文化5)年

表千家8代啐啄斎宗左は表千家7代如心斎宗左の長男として生まれました。
名を与太郎(後に宗員・宗左・宗旦)、号を啐啄斎・件翁といいます。
8歳で父と死別し、川上不白達の後見を受け、叔父・裏千家8代一燈宗室に師事しました。
1788(天明8)年に天明の大火で焼失した家元の復興に尽力し、
1789(寛政元)年には利休二百回忌を営みました。
1804(文化元)年、了々斎に家督を譲って隠居し、「宗旦」を名乗りました。
以後、表千家では隠居して宗旦を名乗る事が慣例となり、
これに対して3代千宗旦は「古宗旦」と呼ばれています。
 

表千家9代 了々斎宗左 1775(安永4)年〜1825(文政8)年

表千家9代了々斎宗左は久田家6代挹泉斎宗溪の長男として生まれ、
表千家8代啐啄斎宗左の婿養子となりました。
名を貞蔵(後に宗禎・宗員・宗左)、号を了々斎・好雪軒・曠叔といいます。
紀州徳川家10代藩主・徳川治宝の茶頭として仕え、
1819(文政2)年に10代樂旦入と共に紀州御庭焼の製陶に携わりました。
1822(文政5)年、治宝候を家元に迎えて呈茶しました。
現在の表千家の表門は治宝候が御成りの際に了々斎が拝領した物です。
和歌山西浜御殿の茶室「実際庵」を好んだ事でも知られています。
要道宗三に参禅し、剛堂宗健より「好雪軒」の号を授かりました。

表千家10代 吸江斎宗左 1818(文政元)年〜1860(万延元)年

表千家10代吸江斎宗左は久田家7代皓々斎宗也の次男として生まれ、
表千家の養子となりました。
名を達蔵(後に宗左・宗旦)、号を吸江斎・安祥軒・祥翁・省々といいます。
2代住山楊甫に後見されて10歳で紀州徳川家10代藩主・徳川治宝に出仕し、
1836(天保7)年に治宝候より台子真点前の皆伝を得るという異例の扱いを受けています。
1839(天保10)年、利休二百五十回忌を営みました。
1855(安政2)年、碌々斎に家督を譲って隠居し、「宗旦」を名乗りました。

表千家11代 碌々斎宗左 1837(天保8)年〜1910(明治43)年

表千家11代碌々斎宗左は表千家10代吸江斎宗左の長男として生まれました。
名を与太郎(後に宗員・宗左・宗旦)、号を碌々斎・瑞翁・碧雲軒といいます。
弟は武者小路千家8代一叟宗守、久田家10代玄乗斎宗悦です。
1855(安政2)年に表千家11代家元を襲名しましたが、
明治維新を迎えると紀州徳川家への出仕も終了し、
茶道界は衰退の道を辿っていきます。
こうした苦難の時代を耐え、家元としての古格を保ちながら茶道復興に尽力しました。
1890(明治23)年、利休三百回忌を営みました。
1892(明治25)年、惺斎に家督を譲って隠居し、「宗旦」を名乗りました。

表千家12代 惺斎宗左 1863(文久3)年〜1937(昭和12)年

表千家12代惺斎宗左は表千家11代碌々斎宗左の長男として生まれました。
名を与太郎(後に宗員・宗左)、号を惺斎・敬翁といいます。
1892(明治25)年、表千家12代家元を襲名しました。
1906(明治39)年の火災で焼失した家元の復興に尽力し、
1913(大正2)年に不審菴を再興し、
1921(大正10)年には松風楼を増築しました。
明治初年には茶道が衰微した苦難の時代を過ごしますが、
明治後半より昭和初期にかけての茶道隆盛期を体験し、
家元の盛大を計る活動には目覚しいものがありました。
好物は歴代の中でも多く、豪華と渋みを折衷した多くの品目が見られます。
千家十職以外の工芸家や各地方の国焼育成にも尽力しました。

表千家13代 即中斎宗左 1901(明治34)年〜1979(昭和54)年

表千家13代即中斎宗左は表千家12代惺斎宗左の次男として生まれました。
名を覚二郎(後に宗左)、号を即中斎・無尽・清友軒といいます。
父が亡くなる前年に兄・不言斎宗員が急逝した為、
1937(昭和12)年に表千家13代家元を襲名しました。
1940(昭和15)年、利休三百五十回忌を営みました。
1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発して茶道界も低迷を極めましたが、
戦後の混乱期にあっても余念なく家元の古格や伝統を保持する事に尽力しました。
社団法人表千家同門会や財団法人不審菴を設立して、
現代における茶道普及・伝統保持という組織機構の基礎を築き上げました。
機関誌『同門』を発行しており、
編著書に『即中茶記』、『表千家』、『元伯宗旦文書』、『千里同風』等が知られています。
  

表千家14代 而妙斎宗左 1938(昭和13)年生

表千家14代而妙斎宗左は表千家13代即中斎宗左の長男として生まれました。
幼名を岑一郎、名を宗員・宗左、号を而妙斎といいます。
1967(昭和42)年、大徳寺512世浩明宗然老師より「而妙斎」の号を授かり、宗員となります。
1980(昭和55)年、表千家14代家元を襲名しました。
1990(平成2)年、利休四百年忌の茶会を催しました。
2008(平成20)年、京都市文化功労者として表彰を受けました。
 

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