遠州流 古美術天平堂

遠州流

遠州流とは小堀遠州を流祖とした武家茶道を代表する流派です。
古田織部に茶の湯を学んだ遠州は師説を基に自己の創意で遠州流を開き、
3代将軍・徳川家光の茶道師範となりました。
禁裏や仙洞御所にも参じたので門下には公家、大名、旗本等も多く、
優れた茶人が数多くの流派を形成していきました。

遠州流初代 小堀遠州 1579(天正7)年〜1647(正保4)年

小堀遠州は小堀新介正次の長男として近江国に生まれました。
名を正一(後に政一)、字を作助、通称を遠州、号を孤篷庵・宗甫・大有・転合庵、
法名を孤篷庵大有宗甫といいます。
1593(文禄2)年、大徳寺111世春屋宗園に参禅しました。
1606(慶長11)年、後陽成院仙洞御所の作事奉行に任ぜられました。
1608(慶長13)年、駿府城作事奉行に任ぜられました。
その修築の功で従五位下遠江守に任ぜられ、
この官名により「小堀遠州」と呼ばれるようになります。
1609(慶長14)年、大徳寺111世春屋宗園より「大有宗甫」の法名を授かりました。
1612(慶長17)年、大徳寺156世江月宗玩を開祖として龍光院内に孤篷庵を建立しました。
1617(元和3)年、河内国奉行に任ぜられました。
伏見城本丸書院の作事奉行に任ぜられました。
1618(元和4)年、女御御所の作事奉行に任ぜられました。
1619(元和5)年、近江国浅井郡小室に移封されました。
1620(元和6)年、大阪城二の丸の作事奉行に任ぜられました。
1622(元和8)年、近江国奉行に任ぜられました。
1623(元和9)年、伏見奉行に任ぜられました。
1624(寛永元)年、二条城、二条城行幸御殿の作事奉行に任ぜられました。
1626(寛永3)年、大阪城天守、本丸の作事奉行に任ぜられました。
1627(寛永4)年、仙洞女院御所の作事に任ぜられました。
南禅寺塔頭・金地院の新築工事に関与しました。
後水尾東福門院御所の作事奉行に任ぜられました。
1628(寛永5)年、二条城二の丸の作事奉行に任ぜられました。
1633(寛永10)年、二条城本丸数寄屋の作事奉行に任ぜられました。
1634(寛永11)年、畿内近国八ヶ国を総監する上方郡代に任ぜられました。
1636(寛永13)年、3代将軍・徳川家光に献茶を行いました。
1640(寛永17)年、内裏新築工事の総奉行に任ぜられました。
1642(寛永19)年、明正院御所の作事に任ぜられました。
1643(寛永20)年に家光が品川・東海寺へ来訪の際、
遠州が庭石に「万年石」と名付けて将軍から褒美の羽織を賜りました。
孤篷庵を龍光院内から現地に移築しました。
1645(正保2)年、将軍から立花丸壺の茶入を拝領しました。
公儀作事の第一人者として徳川幕府の重要人物となり、
作庭や建築に非凡な才能を発揮しました。
千利休、古田織部と共に三大茶人と称されて家光の茶道師範を務め、
「綺麗さび」と評される遠州流茶道を興しました。
遠州七窯といわれる国焼振興を始めとし、
塗師・満田道志や近藤道恵を知遇指導しました。
狩野派の絵師を起用して茶会掛物に絵画を復活させ、
宇治茶園の保護育成にも努めました。
茶器の鑑識に長じ、
名物茶器を多数所持して「中興名物」を選定しました。
『古今和歌集』、『新古今和歌集』、『源氏物語』、『伊勢物語』等の古典からの歌銘を付け、
定家流の書体で銘と引き歌を書き付ける事を広く行いました。
このように遠州は茶の湯と古典文学とを結び付け、
王朝文化の伝統・美意識を茶の湯の中に採り入れるという革新的な役割を成し遂げます。
門下には松花堂昭乗、澤庵宗彭、江月宗玩、船越永景が有名です。
豊臣から徳川へという激動の時代を生き抜き、
瀟洒を極める美意識を生んだ遠州は平和な時代へ向けての基礎を築き上げました。

遠州流2代 小堀正之宗慶 1620(元和6)年〜1674(延宝2)年

遠州流2代小堀正之宗慶は小堀遠州の子として生まれました。
幼名を雅楽(後に大膳)、名を政信・正之・政俊、通称を備中守、号を喜逢・宗慶、
法名を興雲院喜篷宗慶といいます。
1647(正保4)年に家督を相続し、
父の遺領を継いで近江小室藩2代藩主となりました。
父の遺物として「立花丸壺茶入」、「牧谿筆朝陽図」等の13点を将軍家に献上しました。
1660(万治3)年、従五位下備中守に任ぜられました。
書を松花堂昭乗、画を岩本昌運に師事して書画の才は父にも優る技量を発揮し、
御水尾天皇や東福門院の御前で揮毫する栄誉に浴しました。
父より受け継いだ茶道の正統を文書として書き残し、
諸道具の整理・遺物帳等を作成して小堀家万代の基礎を築き上げました。

遠州流3代 小堀政恒宗実 1649(慶安2)年〜1694(元禄7)年

遠州流3代小堀政恒宗実は遠州流2代小堀正之宗慶の長男として生まれました。
幼名を主膳・大膳、名を政延・政信(後に政恒)、通称を和泉守、号を宗実、
法名を法源院真甫宗実といいます。
1674(延宝2)年、家督を相続して従五位下和泉守に任ぜられました。
1682(天和2)年に朝鮮通信使の御馳走役、
1691(元禄4)年に日光東照宮御祭礼奉行を務めました。
書を藤田乗因、茶法を父に師事しました。
今日に『遠州蔵帳』と呼ばれる遠州以来3代に亘って収集された小堀家の蔵品を整理した、
『小堀家器財帳』を制作しました。

遠州流4代 小堀政房宗瑞 1685(貞享2)年〜1713(正徳3)年

遠州流4代小堀政房宗瑞は遠州流3代小堀政恒宗実の子として生まれました。
幼名を大膳、名を政房、通称を源左衛門・遠江守、号を宗瑞・安常・花伴、
法名を松巌院天覚宗瑞といいます。
1694(元禄7)年、家督を相続して従五位下遠江守に任ぜられました。

遠州流5代 小堀政峯宗香 1690(元禄3)年〜1760(宝暦10)年

遠州流5代小堀政峯宗香は遠州流3代小堀政恒宗実の三男として生まれました。
幼名を重次郎、名を政峯、通称を備中守(後に和泉守)、号を宗香、
法名を泰清院梅巌宗香といいます。
兄・遠州流4代小堀政房宗瑞が早世した為、
1713(正徳3)年に家督を相続して従五位下備中守に任ぜられました。
1734(享保19)年、伏見奉行となって従五位下和泉守に任ぜられました。
7代将軍・徳川家継、8代将軍・徳川吉宗、9代将軍・徳川家重の3代に仕え、
伏見奉行や若年寄に出世して幕閣の一員として活躍しました。
茶法を兄や大叔父・小堀十左衛門政貴や土佐守政武に師事し、
遠州以来の茶法を正しく受け継ぎました。

遠州流6代 小堀政寿宗延 1734(享保19)年〜1804(文化元)年

遠州流6代小堀政寿宗延は小堀仁右衛門雅明の次男として京都に生まれ、
遠州流5代小堀政峯宗香の養子となりました。
名を政寿、通称を富之助・大膳亮、号を宗延、法名を鴻学院快厳宗延といいます。
1748(寛延元)年、従五位下大膳亮に任ぜられました。
1752(宝暦2)年、弟・政方に家督を譲って近江小室に隠居しました。
茶法を養父に師事し、
小堀家茶道頭の富岡友喜と親しく交わりました。

遠州流7代 小堀政方宗友 1742(寛保2)年〜1803(享和3)年

遠州流7代小堀政方宗友は遠州流5代小堀政峯宗香の七男として生まれました。
幼名を金次郎、名を政弥・政保(後に政方)、通称を備中守・和泉守、
号を宗友・修禅庵・長松庵、法名を修禅庵清室宗友といいます。
1752(宝暦2)年、家督を相続して従五位下備中守に任ぜられました。
1778(安永7)年、伏見奉行となって従五位下和泉守に任ぜられました。
1785(天明5)年に伏見奉行としての専権・不正によって免職となり、
1788(天明8)年に家禄を没収されて小堀家は改易となりました。
茶法を父に師事して小堀家茶道頭・富岡友喜と共に茶道の乱れたるを嘆き、
『喫茶式』、『数奇記録』等の伝書を自書・編纂して古法の伝達と共に、
遠州流茶道の纏め役を果たしました。

遠州流8代 小堀政優宗中 1786(天明6)年〜1867(慶応3)年

遠州流8代小堀政優宗中は遠州流6代小堀政寿宗延の子として生まれました。
幼名を梅之助、名を正保・政保・政広・政優、通称を大膳、
号を宗中・和翁・大建庵・塩味、法名を大建庵和翁宗中といいます。
1788(天明8)年に小室領地が没収されてからは京都・孤篷庵で育ちました。
分家・小堀政純達の嘆願が容れられ、
1828(文政11)年に切米三百俵の御家人となって小堀本家の名跡を再興しました。
改易時に親類に引き取られていた遠州以来の諸道具も戻され、
『遠州蔵帳』の殆どが伝来します。
茶法を父や小堀家茶道頭の富岡友喜に師事し、
大老・井伊直弼の信頼を得たばかりでなく、
門下に橋本抱鶴、田中孝逸、渡辺玄敬、竹腰篷月、土方篷雨、川路善八、横井瓢翁、
秩父宗波、田村堯中、赤塚宗輯、和田晋兵衛が知られています。
長男・宗本(正和)、次男・篷露(政安、後の権十郎)を薫陶し、
遠州流中興の祖として仰がれるのみに留まらず、
幕末を代表する茶の名手として誉れ高いです。
尾張徳川家に召致されて御蔵器財の分類や整理を行う等の茶器の鑑識に長じ、
茶道を通じて狩野派等の芸術分野の人達との交流も多く、
合作で各種の作品を残しました。

遠州流9代 小堀正和宗本 1813(文化10)年〜1864(元治元)年

遠州流9代小堀正和宗本は遠州流8代小堀政優宗中の子として生まれました。
幼名を静太郎、名を正応・正和、号を宗本・大道子・恬静庵、
法名を恬静庵大道宗本といいます。
茶法を父に師事し、 門下に水谷市郎兵衛、渡辺驥、石黒况翁が知られています。
父の交友関係の広がりと共に文芸・芸術方面での学修の道は大きくなり、
絵は狩野派を習熟しました。
父の書風を学んで小堀遠州の筆跡も会得している事が分かり、
「以宗甫筆宗本書之」がなければ遠州と見紛う作品もあります。

遠州流10代 小堀正快宗有 1858(安政5)年〜1909(明治42)年

遠州流10代小堀正快宗有は遠州流9代小堀政和宗本の子として生まれました。
幼名を長三郎、名を正快、号を瓢庵・宗有・実相庵・茶好、法名を実相庵正快宗有といいます。
祖父や父に茶法を師事し、
小堀家茶道頭・和田晋兵衛と共に研鑽を重ねました。
明治維新を迎えて茶道界も一時衰退の状態となりますが、
枢密顧問官の石黒況翁の勧めで流祖以来の茶道を一般に公開相伝する決意をし、
遠州流茶道普及に専心しました。
第二回観古美術会開催には伯爵・佐野常民の依頼もあり、
小堀家伝来の器財を展観し、
臨席された親王陛下・妃殿下等に御茶を供して遠州流茶道は名声を博しました。

遠州流11代 小堀正徳宗明 1888(明治21)年〜1962(昭和37)年

遠州流11代小堀正徳宗明は遠州流10代小堀正快宗有の長男として生まれました。
名を正徳、号を宗明・其心庵・一貫子・徳翁、法名を其心庵徳翁宗明といいます。
東京美術学校塑像科で彫刻・塑像を習得し、日本画を狩野探令に師事しました。
広徳寺・福富以清禅師より「其心」の庵号を授かり、
自らも「一貫子」と号しました。
益田鈍翁を始めとした財界茶人達との交流も厚く、
三井泰山、団伊能、近藤滋弥達の政財界人の重鎮を門弟に泰和会を創始し、
石黒況翁の後援を得て遠州流茶道の一般普及に力を入れました。
父の時に行わなかった出張教授を行い、
各大名城下町に受け継いでいた流門の師弟を訪ねて流儀発展に大いに貢献し、
東茶会、好日会、止水会等の組織に参加して茶道界向上に大いに活躍しました。
小堀遠州以来のお好みの窯の復興にも尽力して、
自らも絵画、書、茶杓等の多くの作品を残し、
特に茶碗や香合等の造形美術に優れた技能を示しています。
温厚篤実にして近代茶道隆昌の時運に乗って小堀家の復興を果たしました。

遠州流12代 小堀正明宗慶 1923(大正12)年〜2011(平成23)年

遠州流12代小堀正明宗慶は遠州流11代小堀正徳宗明の長男として生まれました。
名を勝通、号を宗慶・喜逢・興雲・成趣庵・紅心といいます。
東京美術学校(現:東京芸術大学)在学中、学徒出陣にて満州に従軍しました。
終戦後はシベリアで4年間の抑留生活を経験し、
1949(昭和24)年に復員しました。
帰国後は父に師事して茶匠に専念しました。
1950(昭和25)年、音羽護国寺において「遠州公嫡子大膳宗慶公」の号を襲名しました。
1962(昭和37)年、遠州流12代家元を襲名しました。
1992(平成4)年、永年の文化功労で都知事表彰を受けました。
1993(平成5)年、勲四等旭日小綬章を受章しました。
「国民皆茶」をモットーに茶道界のリーダーとして茶道本源に関しての研究は勿論の事、
建築、造園、花道、香道、書道各般の分野においても幅広く活動しています。
特に名物裂の研究や茶花に関しては当代随一ともいわれ、
藤原定家の流れをくんだ定家書風の第一人者としても知られています。

遠州流13代 小堀正晴宗実 1956(昭和31)年生

遠州流13代小堀正晴宗実は遠州流12代小堀正明宗慶の長男として生まれました。
名を正晴、号を不傅庵・宗実といいます。
1979(昭和54)年に学習院大学法学部卒業後、
1981(昭和56)年に臨済宗大徳寺派桂徳禅院で、
大徳寺518世福富以清禅師より「宗以」の号を授かりました。
1983(昭和58)年、副家元に就任しました。
2000(平成12)年に大徳寺520世(大徳寺14代管長)福富雪底より、
「不傅庵」、「宗実」の号を授かりました。
2001(平成13)年、遠州流13代家元を襲名しました。
「茶の湯を通して心を豊かに」をモットーに伝統文化の普及と精神文化の向上に努め、
海外においても文化交流活動を積極的に行っています。
特に青少年の育成に茶道を採り入れ、
世界中で子供達の茶道講座「遠州流茶道こども塾」を開講しています。

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